心理的安全性は自己開示から始まる

UnsplashClaudio Schwarzが撮影した写真

乱立する心理的安全性

心理的安全性という言葉が巷に広まり、猫も杓子も心理的安全性と言うようになったと感じている。

でも、そこからの展開というか、では実際にどのように心理的安全性を確保するかということにおいては、まだまだ途上であると考えている。

また、その方向性についても違和感がある。

僕は心理的安全性の確保には、まず「上位者の自己開示」が必要であると考えている。

しかしながら、多くの人たちは、「下位者の自己開示が先」、もしくは「皆が同時並行的に自己開示していくもの」だと考えているような気がしている。

そして、その為にメンバー同士のコミュニケーションの機会を設けたり、イベントを催したりしている。

別にそれが間違いだといいたい訳ではない。

ただ、それでは上手くいかないのではないか(特に日本の職場という文脈においては)と思っている。

今日はそんな話だ。

それでは始めていこう。

日本社会で心理的安全性を確保することは難しい

10年以上マネジメントという仕事をやっている。

そして、それなりに部下とのコミュニケーションにおいては定評があると自負している。

そんな僕が思うのは、心理的安全性を確保することの困難性である。

それは日本社会(特に職場)においては、自己開示をすることはとてもハードルが高いからである。

同じであること。それを良しとすること。

職場には多様な人たちがいる。

また、そこにはあまり階層構造がないように感じている。

どのような背景を持っていたとしても、同じように扱われること(そして、それを良しとすること)。

それは職場の安定に貢献しているとは思う。

でも、違いを押し込めている(ある種封殺している)分、そこから逸脱することは困難になっているとも言える。

今回のテーマに即して言うなら、心理的安全性というのは、一定の規範から離れた自己というものを開示し合うことで得られるもの(というかそれを開示できるような状態を実現すること)なのに、それを開示すると白眼視される可能性があるので皆押し殺している、それが現状であると僕は考えている。

要は、違いが出ないように、皆と同じであるように、行動するのが日本社会においては求められているのだ。

はみ出ること。それを良しとしないこと。

心理的安全性というのは、ある種の「はみ出し」である。

ただそれを良しとしないのが日本社会である(出る杭は打たれるなど)。

そのような外部環境において、心理的安全性を確保するのは至難の業である。

僕はそのように考えている。

困難だが、進んでいくべきだ

ただ、心理的安全性の確保は仕事を進める上で重要なことだとは思う。

上記したように、実現には困難を伴うけれど、そちらの方向に進んでいった方がいい(進んでいくべきだ)と僕は考えている。

さて、ではそれはどのようにしたら実現できるのだろうか?

社員同士の絆を深める?

現在取られている手法の多くは、「社員同士の絆を深める」という種類のものであると僕は考えている。

昨今の社内行事の復活といったものも、この流れを踏襲していると言えるだろう。

「社員同士の交流が深まることによって、心理的安全性が確保されていくはずだ」

それは間違ってはいないとは思う。

でも、それだけでいいのだろうか?

言いづらいことを言いづらい人に言える状態

僕は「上位者にモノが言える」というのが心理的安全性が確保された状態の現れの1つであると考えている。

社員同士で円滑なコミュニケーションが取れるのはある種「当たり前」で、それが良くなることは良いことではあるものの、心理的安全性の確保という文脈とはちょっと違うのではないかと考えている。

言いづらい事を言いづらい人に言える状態。

それが心理的安全性である。

でも、これは上記したように、日本の職場ではなかなか困難なことである。

さて、どうしたものだろうか?

上位者がリスクを取ること

冒頭にも書いたように、まず上位者が率先して自己開示することが必要だと僕は考えている。

そして、その自己開示というのは、ある種の社会的規範(社内的規範)から逸脱したものであることが望ましい(というか求められる)。

「それを言っていいのかな」というような、ちょっとキワドイ話。

それを上位者がすることによって、下位者も「ああ、それって言っていいんだ」と思えるようになる。

でも、ここを直視せず、当たり障りのないことを言うなら、もしくは本質的なことからズレたことを言うなら、心理的安全性の確保は難しい。

そういう意味においても、心理的安全性の確保を真に願うなら、リスクテイクが必要になる訳だ。

心理的安全性を確保しなくても成果は上げられるという逆説

これは裏を返せば、もしそうしないのであれば、安易に心理的安全性の確保などを目指さず、程々の状態で満足することが必要になるとも言える。

正直なところ、心理的安全性の確保ができなくても成果を上げることはできる。

でも、最近の風潮は「これがなければ成果が上がらない」と言っているように僕には感じられる。

その一方で、「はみ出す」ようなリスクテイクをしているかというとそんなこともない。

であるなら、心理的安全性の確保など夢のまた夢では?

僕はそのように考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「そりゃそうだよね」ということを連呼することは、それを実現することとは異なります。

心理的安全性の議論には、このような傾向があると僕は感じています。

心理的安全性を確保することは望ましいと思いますし、それがあれば確かに成果は上がるようになるでしょう。

でも、それを日本社会で実現するのは至難の業であるとも思います。

ただ、その困難性に直面した時に、多くの人が取るのはそれをマントラのように唱えることだけです。

まるでそれを連呼すれば、その状態が実現するかのように。

ここに僕は日本社会の病理のようなものを感じます。

「実現しないのはその想いが足りないからだ!」というような謎の信憑。

それが日本社会には付きまとっています。

想いや願いや祈りや、その類のもの。

それが不必要だとまでは言いませんが、現実的なアプローチも重要です。

痛みを伴うことから目を背けず、血だらけになりながら前に進んでいきましょう。