共感と孤独
成長には孤独が必要
前回に引き続き○○と○○シリーズである。
今回は共感と孤独について。
これだけ書くと意味がよくわからないと思うけれど、仕事における成長には孤独が必要だと僕は考えていて、それが今日のメインテーマである。
一方、昨今の風潮というのは共感一辺倒であると感じている。
もちろん、共感自体は悪いものではない。
でも、共感ばかりでは成長はない。
孤独でなければ、孤独に仕事をしなければ、成長することはできないのである。
意味が分からないと思うけれど、とりあえず始めていこう。
共有化と成長
「物事を共有化すれば、ノウハウが拡張され、全体の底上げになるはずだ」
そのような思想が巷には溢れているように思う。
そして、その為の方策としてSNSの使用があるような気がしている。
社内SNSのようなものを通じて、仕事の内容を共有化したり、そこにコメントを添えたりすることで、全体のエンゲージメント向上や仕事の効率化に繋げようとする考え方。
それ自体は否定すべきものではないとは思う。
でも、それが成長に資するかどうかということに対しては僕は疑問を持っている。
向き合うこと。集中すること。
成長する為には、何かと向き合う必要がある。
そして、何かと向き合う為には、そこに集中する必要がある。
そんなことを思う。
働きかけとフィードバック
集中というのは、個と個の関係性をそこに立ち上げることである。
1対1で対峙するというか。
自分が行うアプローチと、それに伴って生じるフィードバックを、自分なりに解釈し、次に繋げていくこと。
トライ&エラーの連続。
それこそが成長に繋がる。
でも、ここに共感が混じると、その関係性が壊れてしまう。
僕はそんな風に考えている。
共感を得ようとするのが普通?
外に何かを発信したり、共感を得るために仕事をすることがある種当たり前になった。
そんなことに疑問を持つ人なんてきっといないだろう。
また、そのように考える人に対して、情弱感というか、リテラシーの低さを感じる人だっているように思う。
でも、僕が今回言いたいのはそういうことではない。
いいねを得やすい文脈とそれに沿った仕事
「いいね!」を集める行為は、仕事を指数化することだと僕は捉えている。
その仕事が良いものであるかどうかをインプレッションによって計ろうとしているというか。
でも、(当然ながら)皆がいいねと思うものが良い仕事であるとは限らない。
いや、確かにそのような傾向性は帯びるとは思う。
ただ、そこには出来合いの流れがある。
というか、いいねを得やすい文脈がある。
それに沿っていればその仕事は良いものに、そうでなければ良くないものに分類されがちだ。
自己肯定感という麻薬
ファスト&スローの話(人間の脳は自動的で処理が速いシステム1と、意識的で処理の遅いシステム2の2つのモードで思考を処理するというアレのことだ)ではないが、SNSにおいてはシステム1の思考回路が使われる。
それは直感的なものだ。
というか、それを上手く利用しているのがSNS的な世界なのである。
そして、そのようなある種の本能に駆動されてインプレッションを得ることは、その仕事をしている者に限りない興奮(と多幸感)を与える。
それを目がけて投稿を続けるようになる。
結果、いいねを得やすいものが支配的になっていく。
僕はそこには成長がないのではないかと考えている。
水平と垂直
人間の成長には水平方向と垂直方向の2つが必要だ。
もしかしたら、SNS的な思考というのは水平方向には資するのかもしれない。
でも、仮に水平方向に資するとしても、それがインプレッションを稼ぐ為に行われているなら何の意味もない(もちろん、本人にはその自覚すらないだろう)。
ある種孤独に物事を垂直方向に伸ばしていく必要がある。
そして、そこには人間は(というか共感は)不要なのではないかと思うのだ。
共感を得ないものとの交わりが必要なのでは?
先述したように、成長していく為には物事に向き合う必要がある。
そこでは人間というのはむしろ邪魔ですらある(集中を阻害する要因となってしまうから)。
「人間は人間と交わることで成長する」という声明は間違っているとは思わないものの、それが過剰になり過ぎているのが現代社会であり、そうではなく事物と交わることが成長を促すのではないかというのが今僕が考えていることだ。
共感を得ない(得られない)ものとの向き合い。
それが人間を垂直方向に伸ばすのではないか?
そんなことを思うのだ。
私的領域と公的領域の間
そして、その為には、共感からある種隔絶された世界のようなものが僕は必要だと考えている。
いや、隔絶だといけないのかもしれない。
外の世界からのざわめきから少し離れた場所というか。
私的領域と公的領域の間の場というか。
そういうものが必要なのかもしれない。
土間のようなもの
(不完全な)ノイズキャンセリングが行われている場所。
そこにこそ人間の成長があるような気がしている。
イメージとしては、それは土間のようなものだ。
居室と外の世界の間にある場所。
そこで黙々と作業を行うような場所。
そこで人間と事物が向き合うことによって、内省が深まっていく。
それこそが仕事に深みを与えていく。
中間領域でこそ成長する
もちろん、そこで出来た成果物を外の世界に持って行ったっていいし、部屋の中で静かに鑑賞していたっていい。
喧騒から離れた中間領域。
予想通り意味が分からない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
何だかわかりづらい文章になってしまいました。
ただ、僕が書きたかったのは、成長には共感だけではなく内省が必要なのではないか、ということです。
それは孤独な作業ではありますが、そのような過程を経ないと人間の成長はないように考えています。
かといって、孤独過ぎてもそれを活かす場所がありません。
その間にある中間領域。
それが現代には必要であるように感じています。
もっと言えば、誰かに共感を得るために何かを行うのではなく、自分の快の感情に突き動かされてしまうというのが理想です。
目的や意味ではなく、その事象自体を楽しんでしまいましょう。

