マネジメントとは我慢することなのだろうか?

UnsplashJon Tysonが撮影した写真

大人になりなさい?

タイトルのようなことを最近考えている。

というのも、マネジメントという仕事をやっていると、「大人になりなさい」(もしくはその類のもの)といった文脈の話を聞くことが多いように感じるからである。

もちろん、言わんとしていることはわかる。

マネジメントという仕事にはたくさんの理不尽が含まれており、それに一々反応していたのでは仕事にならない、それはそうだろう。

でも、そういう事象に対して我慢したり、もっと言えば不感症になっていくことは果たして本当に良いことなのだろうか、というのが今日の話である。

もう少し正確に表現するなら、我慢することで好転するものとそうでないものがあり、それを「大人になりなさい」という言説によって一緒くたにしてしまうことはちょっと違うのではないかと僕は考えている。

意味が分からないかもしれないけれど、今日はそんな話だ。

子供じみた人ばかり

世の中にはたくさんの人がいる。

たくさんの価値観がある。

そして、僕からすればその価値観の多くはとても子供じみたものだと感じている(とても不遜な考え方ではあるが…)。

それに振り回され続けるのがマネジメントという仕事である。

その場を丸く収めることを至上とすることへの違和感

ここには正論というものは存在しない。

「何とかその場を収めること」「上手くやっていくこと」が至上とされる。

確かに、物事を荒立てずに、日々を円滑に回していくことはとても大切なことだ。

一々拘っていたのでは仕事にならない、それはそうだろう。

でも、時々、こういう状態をそのままにしておくから問題が改善していかないのではないか、と思う時がある。

対症療法だけではどうにもならないことがあるのでは?

時々でいいから根治療法もすべきなのでは?

そんなことを思うのだ。

父親的立場を求め過ぎるから罰ゲームだと言われるのでは?

職場には幼稚な人がたくさんいて、そういう人たちを管理することがマネージャーの仕事であると多くの人が考えているように思う。

そして、そこに求められるのは先生的な立ち位置というか、父親的な立ち位置というか、そのようなものであると感じることが多い。

でも、僕が10年間マネージャーという仕事をしてきて思うのは、そういうことを求めすぎるから誰もマネージャーになりたがらなくなるし、ひいては「罰ゲーム」と呼ばれるのではないか、ということである。

もう少しプロフェッショナリズムというか、「仕事」としてマネジメントというものに向き合うことができるなら、マネージャーの成り手は増えるだろうし、罰ゲーム的環境も緩和されるように思う。

それをマネージャーの忍耐や我慢に還元しようとするから、無理が生じるのでは?

そんなことを考えている。

でも、そのように考えている人は殆どいないようだ。

悪いことを悪いと言うことはハラスメントなのだろうか?

正直者が馬鹿を見る社会。

ルールの穴を如何につくかによって、コスパを上げようとする人たち。

それを指摘すると、「ハラスメントだ!」と糾弾される状況。

それって健全なのであろうか?

僕にはそれがよくわからないでいる。

もう少しマネージャーに権限を与えるべきでは?

僕はもう少しマネージャーに権限を与えるべきなのではないかと考えている。

そしてその権限の中には「減給権」や「解雇権」が含まれていてもいいのではないかと思っている。

もちろん、それを濫用しない(できない)ような制度設計も併せて必要になるだろう。

でも、それくらい現在は危機的状況であるように思うのだ。

ズルい人が得をする社会

確かに、「減給権」や「解雇権」は行き過ぎではないかという疑念についてもよくわかる。

本当であればそんなものがなくても仕事ができる状態が望ましいのは言うまでもない。

しかしながら、そうでもしないと「言ったもん勝ち」「サボったもん勝ち」みたいな状況から抜け出ることができないのではないかとも感じている。

そういう人たちに対して見て見ぬふりをすることを「大人になる」と表現するなら、大人になんかならなくていいよ、と僕は思ってしまう。

そういう考え方が子供っぽいのだろうか?

僕はそれがよくわからないのだ。

権利を主張する者ばかり

権利と義務の話。

それが権利の側に偏り過ぎているのが現状であると僕は考えている。

義務を負う者が割を食っているというか。

もちろん、そのような考えは限りなく主観的であるので、そこに客観性を加えるべきであるとは思う。

他の人から見れば、そんなことはない、そういう捉え方もあるのかもしれない。

でも、だとしたら、なぜこんなにもマネジメントという仕事に誰も付きたがらないのだろうか?

それが罰ゲームであると酷評されるのだろうか?

それに対する有効な回答を僕は得たことがないのだ。

我慢だけではもう限界

我慢の対価としての給料。

それを真っ向から否定するつもりは更々ない。

マネジメントという仕事にはそのような要素が含まれているのは事実だろう。

でも、その分量というか、バランスが少しおかしいように僕は思うのだ。

それは「我慢」というものでどうにかなるものではないように思う。

というか、そのように我慢で片付けられる世代は僕たちかその下くらいまでで終わりなのでは?

そんな風にも思っている。

何だかよくわからない話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

なあなあになっている部分。

そこにしわ寄せが行っているように感じています。

それを打開するためにはもう善意だけでは難しいのではないか?

それが今回の話の主旨です。

解雇や減給というのは、かなり強い言葉であり、それはそれで問題が生じそうだなとは思いますが、それでも現状よりはマシなのではないかというのが正直な気持ちです。

少なくとも、(多少息苦しくとも)まともな人たちがもう少し報われるような社会の方が僕は望ましいと考えています。

共感は難しいかもしれませんが、また読んで頂けたら幸いです。