厳しいこと、言えていますか?

甘さと優しさ
マネジメントとは緩急である。
何だかそれっぽいことを言ってしまった。
でも、そんなことを思う。
ただ、現代のような時代においては「緩」は簡単なれど、「急」は難しいとも感じている。
優しいこと(僕からすれば甘いこと)を言うことは簡単であるが、厳しいことを言うのは難しい。
それは一歩間違えれば、「ハラスメント」と捉えられる危険性を内包しているからである。
だから、皆それを恐れて厳しいことを言えない。
でも、厳しいことを言えなければ個人の成長はないし、当然ながらチームの成長もない。
「それを言っていこうぜ!」というのが今日の話である。
それでは始めていこう。
定義と現実
マネジメントにおける心理的安全性の確保は、現代のようなビジネス環境においてはとても重要なことである。
ただ、その捉え方は(僕からすれば)ちょっと的外れであるような気もしている。
「メンバーが忌憚なく発言できることが心理的安全性である」
まあ、それは間違ってはいない。
というか、定義通りの話である。
でも、定義通りの話が現実に即しているか(特に日本の現実に即しているか)というのは別問題であると僕は思うのだ。
心理的安全性の言葉の射程
僕は最近、心理的安全性という言葉の適用範囲が広すぎるように感じている。
「便利ワード」として使われ過ぎているというか。
何か困ったことがあれば、心理的安全性が足りないからだ、というように結論を急ぐ傾向があるように思うのだ。
もちろん、そういった側面があることは事実だろう。
でも、心理的安全性というのはそんなに簡単に確保されるものではないし、それが確保されればチームとして高い成果が残せるかというと、そんなこともないのではないかと僕は考えている。
いや、確かに心理的安全性が確保されているに越したことはないのだ。
でも、それってちょっと理想論というか、「そういうものが確かにあったらいいけれど桃源郷過ぎない?」というのが僕の実感である。
それを追い求めることは否定しないけれど、それはある種の雲みたいなもので、あまりにもそれに囚われるとかえって本質を見失ってしまうのではないか、とも感じている。
そのような考えが今日のテーマにも繋がってくる。
厳しいことはハラスメントに直結しやすい
僕が最近考えていることは、厳しいことがきちんと言えることが大事なのではないか、ということである。
そして、それはマネージャーがただ一方的に言うだけではなく、それなりに正しく部下に伝わることが重要だと思っている(当たり前であるが)。
でも、これは言うは易く行うは難しでもある。
ましてや、冒頭にも書いた通り、コンプライアンス(ハラスメント)全盛の時代である。
一歩間違えれば、厳しいことというのはハラスメントになり得る。
しかしながら、そのような細い道を通り抜け、部下に適切に届かせることこそが大事なことなのではないかと思うのだ。
老害?
ここには、ある時代から部下の成長速度が極端に遅くなった、という問題意識がある。
それは「おじさんの戯言」と言えば戯言なのだけれど、「老害トーク」というカテゴリーで簡単に片付けてはいけないものなのではないかとも思っている。
というのは、職場において、誰かに厳しく言うことが全く見られなくなったからである。
もちろん、これは「パワハラ的言動」が望ましいということを意味しない(するはずがない)。
そうではなく、相手の成長の為に耳の痛いことを言う、ということすらなくなってしまったことが問題だと思うのだ。
コーチの存在意義
これはスポーツでも習い事でも、何か別のことを想像すればわかり易いと思う。
コーチがいる意味とは何なのか?
体罰的なものが論外であることは間違いないだろう。
そして、大抵のことにおいては褒めて伸ばすということが重要であることは論を俟たないだろう。
でも、そこには高みを目指す為の厳しさというものが含まれて然るべきだとも思う。
また、その言葉が届く為には、そのコーチの言うことが響かなければならない。
コーチへの信頼があってこそ、その厳しい言葉というのは、子供たち(相手)に届くのである。
それはきっと大人になってからも(仕事においても)同様である。
そういう意味においても、僕は「コーチング」というものの捉え方に違和感を覚えている。
コーチングの日本的アレンジの必要性
1on1でのコーチングの見本は、欧米の受け売りばかりで、僕からすればママゴトみたいに思える。
たぶん、コーチングというのはそういうことではないのだ。
というか、本当の意味においてはそれは同じものなのだけれど、日本でコーチングというものを適切に導入しようとするなら、そこにはアレンジが必要であると僕は思っている。
そして、そのアレンジの一つが厳しさなのではないか、というのが僕の現時点における仮説である。
師と弟子
そこには「師と弟子」みたいなイメージが含まれている。
マンガでも武道でもいいのだけれど、そのような関係性を僕たち日本人は当たり前のように想像できるし、そこには当然ながら師の厳しさ(実は優しさ)が含まれていることに違和感なく合意できる。
そういうことを(時には)我々マネージャーもするべきなのではないか?
僕はそんな風に思うのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
部下の成長速度の遅さ。
それを老害と一蹴することへの違和感。
それが今回の話の出所であるのかもしれません。
そこに補助線を入れる時のアイディアが「師と弟子」というものです。
もちろん、職場に師と弟子などいらないというご意見もよくわかります。
でも、多くの人にとってはそうであったとしても、ある種の成長を求める人には必要であるような気がしています。
それを十把一絡げにして排除してしまうのはいかがなものか?
そんなことを思っています。
となると、多くの社員を平等に扱う(扱おうとする)最近の流れではなく、選抜コースというか特別コースというか、厳しさも伴うことを承知で進む(でも処遇も高くなる)道を自らが選択する、ということが必要なのではないかと思ってしまいます。
そのような考え方が「ホワイト過ぎて辞める」人たちの抑制にも繋がるような気がしています。
異論は多そうですが、引き続き読んで頂けたら幸いです。
