安心感の与え方
心理的安全性と安心感
心理的安全性の議論が複雑化してきて、段々とよくわからなくなってきている。
なので、今日はそこまで難しいことを考えずに、安心感を与える為にはどうしたらいいのかについて書いていこうと考えている。
ただ、そうは言っても部下に安心感を与えることだってそんなに簡単なことではない。
心理的安全性と安心感という言葉を比較すると、心理的安全性の方が上位概念であると僕は捉えているけれど(というのも心理的安全性というのは上司に限らず周囲に対しても安全性を感じている必要があるからである)、安心感を与えるのだって一筋縄ではいかないものである。
少なくとも、漫然と仕事をしていてどうにかなるものではない。
それでは始めていこう。
話が通じること=ベースの信頼感
安心感を与える条件は色々とあるとは思うけれど、最初に思いつくのが「話が通じる」ということである。
これはマネジメントにおいてとても大事なことである。
話が通じなければ、話が通じると思って貰えていなければ、マネジメントという仕事はとても困難なものになる。
でも、これさえ出来ていれば、仮に問題が起きたとしても対処できないことはない。
これを僕はブログの初期から「ベースの信頼感」と呼んでいる。
ベースとなる信頼感があれば、管理職という仕事を続けていくことは可能だ。
そして、今回のテーマというのはそれを「安心感」という言葉に言い換えたものだと言えなくもないのかもしれない。
話は誰だって聞ける。でも話が通じると思って貰えている人は少ない。
では、「話が通じる」と思って貰う為にはどうしたらいいのだろうか?
それもある特定の部下だけではなく、全方位的にそう思われる為にはどうしたらいいのだろうか?
パッと思いつくのは、話を聞くということである。
というか、話が聞けなければ、話が通じると思って貰える訳がない。
ただ、話を聞くというのは誰もが出来そうなことでもある。
しかしながら、話が通じると思って貰えている人はそこまで多くない。
この乖離はどうして生じてしまうのだろうか?
相手の価値観に漬かってみる
話を聞けると思っている人に対して僕が思うのは、多くの場合、「受け止め方が浅い」ということである。
表現が難しいのだけれど、話を聞くというのは、ある種相手の価値観に憑依することに近いと僕は思っている。
同一化するというか、洗脳されるというか。
自分の価値観はひとまず脇に置いておいて、相手がどのような理路を通じて話を勧めようとしているのかをマルっと理解しようとすること。
それが話を聞くということである。
もちろん、その話の展開や価値観には納得できないことが往々にして含まれている。
でも、それはそれとして、一旦全部受け入れる。
その価値観に漬かってみる。
そして、それを自分の言葉で言い換えてみることが重要なのかなと感じている。
この言い換えというのが、「話が通じる」と思って貰うためにはたぶん不可欠なのだ。
感覚の共有が安心感に繋がる
多くの人は自分が思っていることをズバリ言い当てるような言葉に行き当たらずにもどかしく感じている。
その周囲を回りながら、それを表現しようと悪戦苦闘している。
それを代わりに言ってあげるのだ。
もちろん、それがバシッとハマる時とそうでない時がある。
でも、その中心にあるものに近づいているという感覚は共有できるはずなのである。
そして、その感覚の共有こそが安心感に繋がるのではないかと僕は思っている。
安心感と共感は違う
それはある種の価値観の理解である。
しかし、だからと言って、それは同一化ではないし、もしかしたら共感ですらないのかもしれない。
「あなたにはあなたの価値観がある。私には私の価値観がある。そして、あなたと私の価値観は異なる。でも、あなたの言っていることが私には理解できる」
これがたぶん安心感の与え方なのだ。
そして、それは(繰り返しになるが)共感ではないかもしれないのである。
安心感に共感は不要だ
多くの人は安心感を与えるというと、共感の方向に進もうとするけれど、僕は必ずしもそれが正解だとは思っていない。
別に共感がなくても、安心感を与えることはできる。
むしろ、共感できなくても、理解ができていることが安心感を強化することに繋がることすらあるのではないかと思っている。
肯定できないこと・肯定されないこと
大きなことを言えば、人の悩みというのは「(自分を)肯定できないこと・(他者から)肯定されないこと」だと僕は考えている。
そして、安心感というのは、それをできるようにすることだと僕は思っている。
そこに共感はいらないのだ。
隔絶された他者、共感できない他者であったとしても、理解することは可能である。
そうなのだ。
たぶん、理解とは承認なのだと僕は思う。
「私はここにいる」という声明に対し、「あなたがそこにいて良かった」という応答を返すこと。
それが承認に繋がり、自己を肯定することに繋がる。
何も難しいことはない。
ただそこにいる存在証明を行えばいいのだ。
それが話を聞くという行為なのだと僕は思う。
ヴォネガットのタイタンの幼女という小説に出てくるハーモニウムという生物のように、僕はそんなことを思うのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
承認欲求の満たし方。
それが安心感を与えることと近いのではないか?
そんなことを思います。
もちろん、それは打算的に行われるべきものではありません。
でも、誰しもがそれを(無意識的にかもしれませんが)求めている。
それをそっと差し出すこと。
それが安心感に繋がります。
そして、それをAIが代替することは可能なのだろうか、という方向に僕の思考は進んでいきます。
本文中では「応答」があればいい、という結論を置きましたが、仮にAIが素晴らしい応答を返す時、僕らはそこに安心感を覚えるのでしょうか?
それで承認欲求は満たされるのでしょうか?
(今のところ)僕はそうではないと考えています。
そして、この辺にAIの限界があるのではないかと思っています。
僕たちは他者からの承認を否が応でも求めてしまう。
それが生物というものの本性なのでは?
ハーモニウムは生物です。
それがもしAIだとしたら、また違う感覚を僕たちは覚えるのでは?
難しい話になりましたが、引き続き読んで頂けたら幸いです。

