負けられる強さ

負け顔ができること
弱点を晒しづらい時代である。
弱みを晒すと、嵩になって掛かってくる、そんな世知辛い世の中である。
でも、実は弱みを見せられる人の方が圧倒的に強いのではないか、というのが今日の話である。
よく芸人界隈で、「負け顔」ができるという表現があるけれど、それに近い感覚を僕は持っている。
何らかの対立や面倒事が生じた際に、仮に自分が悪くなくても、「自分が悪いです」とそこから一歩下がり、対立を未然に防ぐことができること。
こういう人にもう少し光を当てるべきなのではないか?
往々にして、引かない人、主張する人に僕たちは強さを認めがちであるけれど、それはただの子どもの振る舞いであって、褒められたものではないという社会的合意をもう少し深めて行く必要があるのでは?
子供ばかりの社会(会社)の中で、僕はそんなことを考えている。
今日はそんな話である。
それでは始めていこう。
戦争がなくなるはずがない
マネージャーになってから、たくさんの揉め事に関わり合っている。
というか、否が応でも巻き込まれてしまうのがマネージャーの仕事である。
そして、その度に思う。
「なんでこんなに人と人というのは争うのか?」
対立軸がなくても、無理やりそれを立ち上げて、そこに揉め事を作ろうとする人たちがたくさんいることに、マネージャーになってから気付き、今もなお愕然とし続けている。
そりゃ戦争はなくならないよな。
そんな中学生みたいなことを、結構な身体的実感を伴って思ってしまうのだ。
論破の流行
これは「論破」という言葉が流行り始めたくらいからより顕著になった傾向だと僕は考えている。
相手を打ち負かすこと。
それは一見勝負に勝ったように思えるし、周りからもそう見えるだろう。
でも、それは本当に勝ちなのだろうか?
少なくとも、僕はそのような口論を経て勝った者に対して「面倒くさい人」というイメージを抱くし、その後の対応を変えようとする訳で、それは本人にとってあまり良いことではないように僕は思う。
終わらないトーナメント戦(もしくはリーグ戦)
職場にはそのような「論破してきた人(勝ってきた人)」がたくさんいる。
そういう人たちは引くことを知らない。
そして、そのような「引かない人たち」同士で更に口論を続けていく。
それがトーナメント戦なのかリーグ戦なのかは僕にはよくわからない。
でも、ずっと何らかの対立軸をこさえて、ずっと罵り合っている。
「アイツが悪い」という想いをずっと持ち続けている。
とても不健康だ。
一歩引いて、物事を進める
そんな状況下でも、時折スッとその場から逃れられる人がいる。
それが今日のテーマでもある「負けられる人」である。
そこには俯瞰的な視点がある。
口論を続けていても何の足しにもならないから、自分が一歩引くことで物事を進めた方が良いのではないかという、一つ上のレイヤーで自分達の状況を眺めることができる人。
そういう人を僕たちはもう少し重宝すべきなのではないか?
引くのは弱さ故ではない
一見すると、そこに映るのは「弱さ」なのかもしれない。
口論や対立に負けているように見えるから。
でも、本当はそうではないのだ。
そういう人たちが、この壊れそうな組織を何とか繋ぎとめている。
僕はそのように思うのである。
弱いと都合よく使われる
ただ、そういう人たちは都合よく使われがちだ。
また、気が弱いであるとか、強さがないであるとか、そういうネガティブな評価を受けがちでもある。
そして、面倒な仕事はそういう人たちが引き取ることに(往々にして)なる。
でも、対価がそこに伴う訳ではない。
そのような状況がそろそろ限界を迎えているのではないか?
組織を陰ながら支えている人達
組織を陰ながら支えている人達。
そういう人たちはだいぶ減ってしまったけれど、まだ絶滅した訳ではない。
強さを誇示する人ばかりの会社の中で、無駄に対立ばかりしている人たちの中で、そういう人たちは黙々と仕事を続けている。
矛先が向いてくる場合であっても、自分を下げて、その場を丸く収めることができる。
それが本当の強さであると僕は思う。
もうウンザリなんだ
正直者が馬鹿を見る社会。
無法者がのさばる社会。
言い方は何だっていい。
ただ、そろそろそれを変えていかなければならないのではないか?
傾斜をなだらかに
もちろん、一定の傾向は残るだろう。
完全にそれらがクリアになるなんてことは、流石の僕だって考えていない。
でも、この斜度というか、角度はもう少しなだらかにできるような気がするのだ。
声がデカいだけ(で何もできない)人たち
優しさを弱さと解釈する人達。
そういう人たちに助けられていることにすら気づけない人達。
だからといって、何かスペシャリティがある訳でもなく、ただ声がデカいだけの人達。
そういう「ガワだけ」の奴らをどうにかしなければならないのでは?
成果を基準に
それを変えるのが成果主義だと僕は思っている。
というか、成果主義という言葉はもう手垢がつきすぎているので、成果に基づき処遇を変えるという形をもう少し推し進めるべきだ、という言い方の方が適切なのかもしれない。
そして、その成果というのは、個人だけではなく、チーム単位で測られるべきなのではないかとも考えている。
そうであるならば、負けられる人達、光が当たりづらい人達にも、その処遇の分け前がきちんとくるはずだから。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
職場には不機嫌な人がたくさんいます。
でも、その中でも笑顔を絶やさず働いている人もいます。
また、そういう人はきちんと負けることができます。
「負けるが勝ち」ではありませんが、そういう人をもう少し厚遇したいと僕は考えています。
長期的かつ俯瞰的な視点を持って、人を評価していきましょう。
