「貯金」が通じない人

人間関係における貸借勘定
今日は「貯金」と言いながらも人間関係の話だ。
ここで言う「貯金」というのは人間関係における信頼構築のことであり、もう少しわかり易く言うなら「貸し借り」「持ちつ持たれつ」のようなものだ。
もちろん、誰かと接する際に、貸借勘定を頭に描きながらその対応をする訳ではない。
そして、その貸し借りは厳密でも何でもない。
何となく、まあ言われればそうかな、くらいのものではある。
でも、そこに確実にあるものだとも思っている。
言わば「信頼貯金」のようなもの。
しかしながら、このような概念が全く通じない人がいる。
今までの経緯など一切忘れたかのように、恩を仇で返す人達。
今日はそんな話である。
それでは始めていこう。
互恵関係と損得勘定
「恩を売る」
言葉で書くとあまり気持ちの良いものではないが、職場における人間関係においてこのようなことが頭をもたげることがある。
「面倒くさいけれど、後々のこともあるから引き受けておくか」
逆も然りである。
「前回あの人にはお世話になったから、今回の件は大目に見るか」
そのようなある種の互恵関係の中で仕事は進んでいく。
そして、僕はそれを当たり前のものだと思っている。
でも、どうやらそれは必ずしも当たり前のものではないようなのだ。
いきなり不義理を働いてくる人達
過去のやり取りを一切忘れたかのように、いきなり不義理を働いてくる人が職場には結構な確率で存在する。
それは僕にとっては大きな衝撃であった。
ただ、それは管理職になる前にはあまり気付かなかった視点でもある。
持ちつ持たれつ
職場にはたくさんの部署があって、部署同士の利害が必ずしも一致している訳ではない。
そこには当然ながら時に衝突が起こるし、その衝突を解消すべく折衝が行われたりする。
大抵の場合は今までの経緯を踏まえて、「今回はこちらが譲歩する」であるとか「向こうが折れる」とか、そのような着地となることになる訳だけれど(いかにも日本的だ)、それが一切通じない人が存在する。
初めの頃は、「あれ? 前のことは忘れてしまったのかな?」と比較的フラットに捉えていた僕も、それが恒常的に起こることがわかると、対応を変えざるを得ない、そのように感じるのである。
見返りを求めている訳ではないが…
「徳を積む」
先程の「恩」の話ではないけれど、このような概念も人間関係においては無意識に存在するように思う。
これは「善行を施す」と言い換えてもいいのかもしれない。
もちろん、そこに見返りなど求めてはいけないものなのかもしれない。
でも、暗黙の内に、そのような期待をしてしまうのもまた事実であるように思う。
コミュニケーション負荷を減ずる為の方法の1つ
「良いことをしておけば、いつか将来困った時に助けてくれるだろう」
そのようなぼんやりとした思い。
それはこのように改めて記述すると野暮ではあるものの、潜在的意識の中には確実に存在するものだと僕は思っている。
というか、それをすることで一から人間関係を構築する必要が薄れ、コミュニケーション負荷が減じる、結果円滑なやり取りを行うことができる、そんな風に思うのだ。
(文字通り)狐につままれたみたいな気持ち
でも、このような概念が通用しない人が職場には存在する。
僕はそれが心の底からよくわからない。
今までのことは何だったのか?
本当に狐につままれたような気持ちになるのだ。
キツネではなくタヌキか?
これは正に昔話のように、一夜明けるとお金が葉っぱになってしまうような感覚である。
あれは幻だったのか?
きっとそうなのだろう。
そのように思うことで僕は平静を保つようにしている。
そして、それから一切その人とのやり取りに貯金という概念を持ち込むことをやめようと心に誓うのだ。
一々判断するのは面倒だ。が…
その取引(案件)毎に対応をその都度判断すること。
これは認知負荷の高い行為である。
でも、そのようにしなければこちらばかりが損をすることになる。
自分が管理者でなければ僕一人が我慢すればいいだけだけれど、マネージャーとしてそれを飲んでしまうと部下も割を食ってしまうので、そのように対応せざるを得ないのだ。
そのようなビジネスライク的やり取り。
それが望ましいというか、そうせざるを得ないというのが僕の感覚である。
無駄な努力では?
でも、それが明らかになった後でさえ、まだ貯金を貯めようと努力を続ける者もいる。
僕はそれを無駄だと思う。
「あの人のご機嫌を取っておかなければ、後々大変なことになるから」
そのような努力を続ける者は、そのようなことを自嘲気味に(でもどこか自負を持って)宣う。
もちろん、それが完全に無駄だとは思わない。
でも、他のもっと有益なことに体力を掛けた方がいいのになとは思う。
葉っぱを貯めて何の意味がある?
そして、もう少し辛辣なことを言わせて貰えるなら、そのような行為を続けることは必ずしも免罪符にはならない、ということである。
言ってみればそれは余計な仕事であり、他にできる(やるべき)仕事を蔑ろにしているだけなのでは?
また、「貯金」が通じない人を必要以上に増長させるだけなのでは?
そんなことを思うのだ。
それなら信頼関係を構築できる人達と円滑なコミュニティを築いた方が建設的なのでは?
変な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「通貨制度は壮大な幻想である」
あの昔話がそこまで大層なことを書いているのか知りませんが、貨幣が通じるのは双方がその貨幣に価値があると信じているからです。
それは人間関係においても同様です。
信頼関係が破綻した後には、それは紙切れ(葉っぱ)に過ぎません。
僕は信頼を裏切る人も、裏切られた後でもまだその制度を信じ続けようとする人も好きではありません。
適切に処していきましょう。
