オーソライズという名の責任逃れ

強権と支援
リーダーシップには「強権」と「支援」のバランスが重要だ。
強権というのは、リーダーシップという言葉からイメージしやすいものだと思うが、「自分が先頭に立って部下を導いていく」というような形を言う。
支援というのは、リーダーシップという言葉の対義的なもののように感じるかもしれないが、部下達を下から支えるようなリーダーシップのことを指す。
強権が行き過ぎると「独裁」になるし、パワハラ系マネージャーになる。
支援が行き過ぎると「民主的」にはなるけれど、何も決めることができないヘラヘラ系マネージャーに近づいていく。
なので、このトップダウン的なアプローチとボトムアップ的なアプローチを上手に組み合わせていくことが、現在のリーダーシップには必要となる(と僕は考えている)。
そして今回のテーマは、一見民主的に見えるリーダーというのは実は責任逃れをしているだけなんじゃないか、という観点からのものだ。
「目標」がない時代におけるマネジメント
聞き分けの良い人というのは、褒め言葉のようだけれど、決断ができないという言葉とある種同義である。
オーソライズを取る、というのは、正当な手続きを踏んでいるようだけれど、責任を分散化させているだけに過ぎない。
これは時代の変化に伴うものだと思うのだが、昭和的なマネジメントにおいては、強権的なアプローチが「当たり前」のものだった。
上意下達というか、上の者が下の者を率いていく、ある種軍隊的な手法が当然であり、それはキャッチアップ型の高度経済成長期にはぴったりの手法であったのだと思う。
一意専心というか、ある目標に向かって全員が一丸となって走り抜ける(「24時間戦えますか?」)というのが日本的経営の良さであり、時代的にも適合的であった。
でも、時代は変わり、「目標」というのがなくなり、どちらに走ればいいのかわからなくなった現代において、このマネジメント手法には問題も多くなってきた。
五里霧中の現代においては、必勝法はないし、先導的にそれをリーダーが示すことはできなくなってしまった。
過去の成功体験はあくまでも過去に属しており、現代に簡単に応用できるものではなくなってしまった。
パワハラ系が減り、ヘラヘラ系が増えている
そんな中で同じような強権的リーダーシップの「ガワ」だけが残ってしまった。
内実が伴っていない自称リーダーたちが、その権力にしがみついたまま、頓珍漢な指示を出し続ける。
そして部下達は時代が変わったことを体感的にわかっているので、そんな旧世代の命令に表面的には従うものの、心の中では納得しないまま働いている。
「強権」には「責任」が付帯していたはずなのに、「強権」だけを保持したまま、「責任」を取らない「子供たち」がリーダーを気取っている。
その暴走の一形態がパワハラなりセクハラなりになる。
その残党は未だ残っているものの、以前より数は少なくなった。
その代わり出てきたのが、何も為さない(責任を取ろうとしない)ヘラヘラ系マネージャーたちだ。
彼らの特徴は、できるだけ仕事の範囲を狭め、リスク回避的に行動するということだ。
そして、人の良さ、聞き分けの良さ、というものを演じようとする。
民主的な解決方法を好み、衆議と情報共有を好む。
これ自体は悪いことではない。
しかしながら、ここには「責任を取る」という態度が欠如したままだ。
リスク極小化マネジメント
もちろん、このようなやり方になってしまうのは、ある種仕方がないとも言える。
コロナウイルスによって再び露呈されたように、日本社会は異端者や落伍者にとても厳しい。
同調しないもの、異議を唱えるもの、足並みを乱すもの、が「失敗」すると、拍手喝采を送る。
安全地帯に身を置いたまま、「そうでない」自分に安堵する。
そしてああはなるまい(明日は我が身だから)と心に誓う。
このようなムラ社会・村八分的な価値観が大勢を占める社会において、「責任を取る」「責任を取ろうとする」のは自殺行為だ。
だから、少しでも関係ある人をたくさん集めて、その人たちにも話をしておくことで、責任を分散化させようとする。
そして実際に失敗すると、「いやいや、事前にお話ししていましたよね」という顔を平然とする。
「なぜ、その時に言わなかったのですか?」「言わなかったのであれば、同罪ではないですか?」ということを平気でのたまったりする。
張りぼての自称リーダーたち
僕はこういう「一見善人に見える人」にうんざりしている。
上手く言えないけれど、強権的な(昭和的な)昔の上司に郷愁を感じている。
彼らには問題も多かったけれど、矜持があったと思う。
最後には自分が責任を取る、というような潔さがあったと思う。
もちろんパワハラは言語道断だけれど、「親分的」な器の大きさがあったから、僕たちはその人たちをリーダーと認めていたのだと思う。
でも現代において、そのような人達はいなくなってしまった。
「張りぼて」の自称リーダー達は今日も善人面をして、「民主的に」責任逃れを繰り返している。
そんな人たちが多数派を占める社内で、僕は一人負け戦を続けている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「小狡い」大人が増えているような気がしています。
本文でも書いたように、それは現代日本社会においては仕方ない面もあるとは思います。
そうじゃないと自分の身を守れないという感覚もよくわかります。
でも、本当にそれだけでいいのでしょうか?
上手く言えないのですが、「小さなリスク回避の累積」は巡り巡って、大きなしっぺ返しをもたらすのに、なんでそれがわからないのだろうか、と感じてしまいます。
そしてそういう自分に良心の呵責のようなものを感じることはないのでしょうか?(まあそれがないから、そのように振舞えるのでしょうが…)
虚飾や張りぼてが多い大人たちの中において、従来以上に「本音」が求められているような気がしています。
それは単なる「我」ではない、と思うのですが、まだまだその意見は主流ではなさそうです。
そういう主流派たちから潰されないように、身をかわしながら仕事をしていきたいと思います。