なぜ日本のエンゲージメントは低いのか?
諸外国の中で最低ランク
日本の従業員エンゲージメントは諸外国と比較して最低ランクであるという。
そりゃそうだろうな、と僕は思う。
これでエンゲージメントが高かったら、むしろそっちのほうが問題だよな、とすら思う。
その理由はたくさんあるとは思うけれど、今回は「無力感」と「コスパ」にフォーカスして書いていこうと思う。
自分の仕事は無意味だ
ここで言う無力感とはなにか?
自分のやっていることは社会的にも会社的にも意味がないし、自分の上司もそう思っている。
そしてそう思っている上司自身も自分の仕事は無意味だと思っている。
そしてその上司も…。
以下無限に続く。
でもみんながみんな自分の仕事に意味がないと思っていても、それを個人の力でどうすることもできないし、そこにはそういう「空気」が漂っているし、ただ無意味なことを無意味なまま繰り返せざるを得ない。
みな白けたまま働いている。
それでも給料は貰える。
生活を送ることはできる。
でもそこには虚しさしかない。
その虚しさを抱えた個人がそのままの虚しさ(自分の仕事には意味がない)に直面するのは耐えられないから、はなから仕事に対して興味などないんですよ、という演技をすることで自己を防衛する。
「そもそも仕事なんていうのは、生活の糧を得る為に仕方なくやっていることで、そんなもので自己実現を図ろうとなんて思っていないし」
そう思うことで自分を納得させよう(騙そう)とする。
「コスパ」を良くしようとする労働者たち
でも演技というのは不思議なもので、気が付けばいつしかその演技が現実になっている。
その結果、「労働」は「消費」に近接していく。
いかに少ない労力で、大きな対価を得るか、にその軸足が動いていく。
価値のあるものをできるだけ安く買うのが「賢い」消費者であるように、できるだけ無気力な状態で多く給料を得ようとするのが「賢い」労働者だ。
要は「コスパ」を良くしようとする。
ここで「無力感」と「コスパ」が結合する。
机に座ってyahooやgoogleを見て1日を過ごしても、一生懸命働いて会社に大きな利益をもたらしても、給料が変わる訳でもない。
もしかしたら長期的に見たら昇進や昇格で報われるのかもしれないけれど、その時まで会社が存在している保証なんてない。
それならなぜ頑張る必要がある?
できるだけ怠惰にいた方が得じゃないか?
みんながそう思う。
その方が合理的だと思うようになる。
真面目に働くのが馬鹿らしい社会
かくして、一生懸命働いていた人間達も、1人また1人と闇に落ちていくので、自分達だけが一生懸命働いているのが馬鹿らしくなってくる。
結局自分達の稼ぎはあいつらを養っているだけなのではないか? と思うようになる。
寄生虫どもめ。
アホらしい。
こうして全体の生産性の水準は下方に調整され、固定化される。
低エンゲージメント社会の出来上がりだ。
(ここまで書いていて思うのは、かつての計画経済型の社会主義国が低生産性であったのと類似した傾向を示しているのではないか、ということだ。議論が難しくなるので今回は割愛するが、日本社会では資本主義という大きな仕組みの中に、「会社(年功賃金・終身雇用・企業内労働組合)」というある種社会主義的な共同性や社会保障制度を内包して上手くワークさせていたのだけれど、それが壊れている、でもそれを直視しようとしない、ところに問題があるような気がする)
意味と成果を
これを変えるには、「無力感」と「コスパ」という概念を変えるしかない。
無力感には「意味」を。
コスパには「成果」を。
それぞれ与えることが必要だ。
無力感の正体
まず「意味」について。
人間は自分が無意味であるということに耐えられない生き物だ。
「自分で掘った穴を自分で埋める」という作業が究極の拷問であるように、僕らは無意味なものに耐えられないようにできている。
そしてその無意味な状況を変えられない(無力な)自分にその矛先を向けてしまう。
これが無力感の正体だ。
自分を起点として物事が変わっていくという信念
ここで重要になるのは、自分で自分の行動を変えられるという概念だ。
そしてその行動ができるという自信だ。
これを自己効力感という。
自分で自分のやっている仕事をコントロールしている、それができる、という概念、これが職場には必要だ。
自分に対する信頼、有能感、と言い換えてもいいのかもしれない。
誰かにやらされるのではなく、自分が何らかの発信点になること。
それが社会のごく一部であったとしても、自分を起点として、物事が変わっていくという信念。
それが僕たちには必要だ。
1人1人の行動を意味のあるものにする
どんな些細なことでも良いし、実際にはそれが幻想や自己満足に過ぎなくても構わない。
自分の意思で、社会に何らかの影響を及ぼすこと。
定型的反復的な仕事であっても、そこに自分の意思を織り交ぜること。
そこにささやかな好奇心と面白さを埋め込むこと。
そんなの何のインパクトももたらさない?
それはそうなのかもしれない。
でも、社会なんてものは僕たちの総体に過ぎないのも事実だ。
僕たち1人1人の累積が社会なのだ。
その1人1人のちょっとの行動を意味のあるものにする。
僕がこのブログを書いているのもそういうことなのかもしれない。
時間給ではなく成果給を
次は「成果」だ。
労働における価値尺度を「時間」ではなく「成果」に変える。
「成果」というのは何も数字だけのことではない。
先述した「意味」のことだ。
もちろん数字というのもわかりやすい「意味」の一形態であるのだけれど、それをどれだけ行うことができたかを基準とする。
ただ漫然と過ごすだけでなく、何を生み出したか、どんな影響を与えられたか、を評価軸とする。
意味のあることを相互に評価する仕組みを
では誰がそれを評価するのか?
意味があったと判断するのは誰なのか?
それは我々みんなだ。
幸いなことに僕たちにはインターネットがある。
負の側面があるのも承知の上で、僕らは僕らにとって意味のあることを評価し合っていく。
そこにたぶん富は生まれるのだろう。
ウーバーなどの相互評価システムのようなもの、もしくはクラウドファンディングや投げ銭のようなもの(評判のある人にお金が集まってくる)、そういうものを僕はイメージしている。
もちろんそれはある程度クローズドな環境でも適用可能だ。
会社の中での評価軸にこうした概念を埋め込む。
意味のある仕事をして成果を上げた人を評価する仕組みを作る。
そこには外部性と内部性の入り混じったものが生まれる。
そんなことができるようになれば、会社へのエンゲージメントなんて低くても、いい仕事ができるようになるはずだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文内では、相互評価社会のような着地点となりましたが、これは一歩間違えると、相互監視社会のようなとても窮屈なものになる可能性があります。
(というか、そもそもユートピアというのはディストピアと背中合わせであるものなのかもしれません)
僕がイメージしているのは、開かれた透明性の高いインターネットによる相互評価ですが、これは運用次第では全体主義的な傾向を帯びる可能性があるので、ウェットなムラ社会的な日本において上手くはいかないだろうな、とは思っています。
(現実的には僻みと妬みと足の引っ張り合いが常態化するという悲惨なものになるでしょう。特に会社というピラミッド型組織ではその傾向は強化されてしまうはずです)
それでも(実態はよくわかっていませんし、本当のところはどうなのかはわかりませんが)、台湾においてコロナウイルスの封じ込めがある程度成功したこと(g0v、vTaiwan)については参考にしても良い事例なのかなと思っています。
マスクが全世界的に蒸発したあのパニックの状況下で、善意というものがフェイクニュースを駆逐した(と言われている)こと。
そんなものを僕は信じてみたいと思っています。
行き過ぎるとサイバーリバタニアニズム的になりそうですし、もう少し判断は保留したいのですが、「パフォーマンスに応じて対価が支払われる」「正直者が馬鹿を見ない」「当たり前のことが当たり前になる」仕組みをこれからも考えていきたいと思っています。
いいアイディアがあれば教えてください。