キレイゴト・キレイゴト
管理職は綺麗事を言うべきなのだろうか?
綺麗事を言う人が苦手だ。
その上で汚いことをやる人はもっと苦手だ。
でもこのような人は多い。
管理職にもなれば大多数がそうだ。
言っていることとやっていることがどんどん乖離していく。
でもそれに対する自覚はない。
たぶん言い始めた時には多少はその中に本音も含まれていたのだろうけれど、言っているうちにそれを言っている自分に騙されていって、疑うことすらなくなってしまったのだろう。
平然とした顔でとんでもないことを言う。
良心の呵責など微塵もない。
葛藤なんてない。
マシンのようにそれを言う。
綺麗事を言う。
そして自分の手は汚さない。
僕もいつかそんな風になるのだろうか。
「いいとこどり」は不可能
マネジメントをやっていて思うのは、「いいとこどり」は不可能だということだ。
綺麗事を言うのであれば、綺麗な仕事をしなくてはならない。
それを貫徹させなければならない。
でも、現実においては綺麗事というのはすぐに成果にならない。
成果にならないと色々な外圧が襲ってくる。
当初は何とか踏ん張れるのだけれど、それが続くと、そして強くなってくると、だんだんと負けてしまうようになる。
外圧にもそうだけれど、自分にも自信がなくなってくるから。
そうやって、「ちょっとくらいならいいかな」と思って、ちょっとだけ汚い仕事にも手を染めるようになる。
後は真っ逆さまだ。
認知的不協和を解消するために、それを正当化していく。
綺麗な仕事をする為には綺麗事を言い続けなければならない
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃないか」
「これが現実なんだよ」
わからなくはない。
というか、痛いほどよくわかる。
でも、「いいとこどり」はできないのだ。
綺麗な仕事をする為には、綺麗事を言い続けなければならないのだ。
どちらにも良い顔はできない
僕はべつに汚い仕事を否定しない。
それはそれで必要なものであると思っている。
でも手が汚れているのであれば、綺麗な振りはしないで欲しい。
綺麗か、汚いか、どちらかだ。
どちらにも良い顔はできない。
善人の振りはやめて欲しい。
でもそういう人ばかりだ。
そういう管理職ばかりだ。
本当に。
身銭を切ろう
これは何としても「綺麗な仕事をすべきだ」というのとは違う。
綺麗な仕事だと自分では言っているけれど、やっていることが別である、ということに僕はとても違和感を覚えている、ということだ。
上手く言えないけれど、リターンを得たいのであればそれ相応のリスクを負って欲しい、ということだ。
善人面をしながら、二枚舌を使いながら、部下を壊していく管理職に僕は我慢がならない。
自分が管理職になる前もそうだったし、管理職になった今でもそうだ。
自分の仕事のやり方にポリシーがあって、それを自覚してキツい仕事をさせて、それでも付いて来られないものは壊れても仕方がない、でもそのリスクはきちん負う、という人に対して僕は何も言うことはない。
それは1つの仕事のスタイルであって、僕がとやかく言うことではないからだ。
でも狡いと思うのは、リスクは取らないで、リターンだけ得ようとする種類の人間だ。
口ではさも良いことをいいながら、やらせていることは全く違う。
周囲の人間もそれに気づくことはない。
それを要領が良いと言うのかもしれない。
でも僕はそうはなりたくない。
価値観の相違と意見の押し付け
僕は自分のやり方が最善だとは思っていないけれど、少なくとも彼らのやり方よりはマシだと思っている。
世界は公正であるべきだなんて全く思わないし、正義は勝つなんて微塵も思っていない。
自分が納得できる仕事をやった方が結果的に数字も伸びる、そう思っているだけだ(いや、彼らだってきっとそう思っているのだろう)。
そういう意味においては、僕の言っていることはただの価値観の相違に過ぎないのだろう。
押し付けるつもりはない。
だから僕にも押し付けないで欲しい。
ただの意見表明
僕は綺麗事を言いながら、成果を出し続けていく。
自分の言うことに対して責任を持ちながら、納得できる仕事をやり続けていく。
ただの意見表明になってしまった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文内ではあまりうまく表現できていませんが、「口だけ良いことを言って、その責任は負わない、というのはナシね」というのが僕が言いたかったことです。
それはポジションを取るということですし、身銭を切るということです。
綺麗なことを言うのであれば、そこに纏わりつくデメリットについてもきちんと受け入れる。
「いいとこどり」はナシ。
それが僕はマネジメント(というか人生)には重要だと思っています。
二枚舌を使うことなく、リスクとリターンを公平に扱いながら仕事をしていきましょう。