私は悪くない症候群

責任を負うのがマネージャーの仕事

マネジメントをやるようになっても「私は悪くない」というスタンスで働いている人は多い。

あくまでも少ないサンプル数からの意見となるけれど、これはプレイヤー時代に「ちやほやされてきた」人に多い傾向だと思う。

もう少し突っ込んで言うと、若くしてマネージャーになった人に多くみられるものだ。

何かにつけて、自分が悪くないこと(相手が悪いこと)を主張したがる。

いやいや、ちょっと待て。

マネージャーにおいて大事なのは「責任を負うこと」だ。

もう少し正確に言うと、「自分には関係ない事象についても責任を負うこと」だ。

それを今回は書いていく。

すくすくと育つ人達

失敗の責任を取るというのは誰にとってもできれば避けたい事象だ。

特にプレイヤーとして華々しく活躍してきた人はこれを避けることが上手な場合が多い。

ちょっとでも風向きが怪しくなってきたら素早くそこから立ち去ることに長けている人が多い。

周囲もその人のことを有能だと認めているので、できるだけ火の粉がかからないところに配置することになる。

結果として、そのような人は「健やかに」育つことになる。

出来るだけ悪い虫がつかないように、「綺麗に」育てられる。

自分は特別であるというおかしな自意識

そうやって月日が経つうちに、本人も勘違いをし始めて、「私は特別だ」というおかしな自意識を持ち始める。

スティーブ・ジョブズではないけれど、現実歪曲フィールドを使って、自分に責任がないことを主張し始めたりする。

プレイヤーで留まるのであればその弊害はそれほど大きくない。

あくまでも個人の責任の取り方に関わる問題、範囲の小さい問題であるからだ。

でもこれがマネージャーとなると話は大きく変わってくる。

まずは自分のことが最優先、そして次が自分のチームのこととなり、他の事象は「関係のないこと」となる。

直接的には「あなたが悪い」とは言わないまでも、「私は悪くない」ということを手を変え品を変え主張する。

上司の方もこの種の「ちやほやされてきた人」に対しては目が曇っていたりするので、それを言葉通りに受け止めてしまったりする。

軽い地獄だ。

でもそれは「よくあること」だ。

同一化とセクショナリズムによって責任を回避せよ

日本社会においては「失敗」の代償はとても大きいので、多くの人はリスク回避的に行動することが「当たり前」となっている。

自分の仕事の領域を広げると「失敗」が入り込んでくる確率が上がってしまうので、できるだけ小さな範囲の中で仕事をするようになる。

手の届く範囲の仕事だけするようになる。

一方、仕事の範囲が狭いので、その狭い範囲の中における仕事には並々ならぬ拘りを見せたりする。

ちょっとでも違うことが許せなくなる。

同一化とセクショナリズム。

それが「私は悪くない」と主張するマネージャーに率いられたチームの特徴だ。

脊髄反射的に善悪で判断を行う

判断の優先順位は「悪い」か「悪くないか」であって、それ以外のことは些末なことに過ぎなくなる。

そしてその判断も、感情的・反射的に行われる

当然ながら、判断の射程もとても短いものになる。

近視眼的に物事を判断するので、場当たり的な動きが増える。

成果なんて上がるはずがない。

でも本人も周囲も、その原因に気付くことはない。

マネージャーの面白さを全て放棄するつまらなさ

僕はこういうタイプの人を見ると、「かわいそうな人だな」と思うことにしている。

マネージャーの仕事の醍醐味は領域を広げることで、不確定な事象を楽しむことだ。

予想もつかないことが次々と起こって、それに対してアドリブ的対処していくこと、そこに知性を混ぜ込んでいくこと、それが面白いのに、それをすべて放棄してしまっている。

確定した事象は確定した事象だ。

それを繰り返していくことに何の意味があるのだろうか。

直接的には関係ない事象も含めて「私が悪い」と言えるか

リスク回避的な行動を個人として批判するつもりはない。

先述したように、プレイヤーであれば好きにやればいいとすら思う。

でもことマネージャーとなったら話は別だ。

一刻も早くその職を辞した方が良い。

明らかに向いていない。

自分が誰かに付いていく場面を想像してもらえればわかると思うのだけれど、責任回避的な人と責任引受的な人であれば、後者の後に付いていくことを選ぶだろう。

自分のことも自分のチームのことも、それ以外のことも纏めて受容する。

直接的には関係ない事象も含めて「私が悪い」と言えること。

それがマネージャーにとって最も大事な心構えだ。

いや、たぶんリーダーにとって最も大事な心構えだろう。

僕たちは自分達で自分達の社会をつまらないものにしている

日本社会の停滞の要因の1つとして、みんながみんな自分達の首を絞めていることがあると僕は思っている。

自縄自縛というか、自分達で自分達の社会を窮屈なものにしてしまっているように感じている。

もちろんそれぞれの個人の行動は合理的なのだろう。

でもそれが合わさると(合成の誤謬)、とても生きづらい社会が形成される。

上手く言えないけれど、社会の構成員がそれぞれ「私は悪くない」という社会と「私が悪い(のかもしれない)」という社会では、その成熟度は大きく異なる。

「大人」がいなくなってしまった社会。

その縮図としてマネージャーのこのような行動があるのだろう。

それを見て、次の世代のマネージャーも育っていく。

幼児性を抱えたマネージャーが再生産される。

軽い悪夢だ。

でもそれは僕たちが選んだ社会でもあるのだ、きっと。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「私は悪くない」と言う人達の反対側には「犯人捜し」をしている人達がいます。

悪いのは自分ではなくて他の誰か(何か)であって、それを排除すれば世界はより良くなる、という考え方は、完全に間違っているとは言えないまでも、幼児的な世界観だと僕は思います。

僕たちは無意識のうちにその悪さの片棒を担いでいるかもしれない

責任の一端は自分にあるかもしれない

そのように考えられる人達を僕は「大人」と呼びたいと思います。

現代においては、「大人」であることは「割を食う」ということと同義であるのは承知の上で、僕はそのように行動していきたいと思っています。

賛同していただけたら幸いです。