若手社員と上辺の忠誠心と本音への渇望

品が良い若手たち

若手社員と話していて最近思うのは、「とても行儀がいい」ということだ。

これは悪い意味で言っているのではない。

純粋に凄いなと思うのだ。

誰と接しても波風が立たないように、円滑な人間関係が築けるように、行動している。

敵を作ることはないし、誰からも「感じよく」思われる。

自分の若い頃を振り返ると、尖って敵ばかり作っていたし、むしろそれで構わない、と思っていたので、余計にギャップを感じるのかもしれない。

もちろん、「若手」と十把一絡げにするのはおかしいし、個人差はあるのだけれど、総じてみんな「品が良い」のだ。

優等生的であるというか。

僕からしたら「疲れそうだな」と思うのだけれど、彼らはそうは思わないようだ。

たぶん無理をしているという感覚ではなくて、自然とそのように振舞ってしまうのだろう。

今日はそんなことを書いてみようと思う。

相対的な立ち位置への過剰な配慮

デジタルネイティブというか、SNSが当たり前の時代に生きていることが、こういった立ち振る舞いに繋がっているのだと僕は思っている。

それは悪い噂というものが瞬時に膨大な数に伝わってしまう、一旦そのような評価が張り付いてしまうと取り返しがつかない、その結果として防衛的にならざるを得ない、ということが背景にあるからだと僕は考えている。

信用スコアというか、「相対的な立ち位置」のようなものを過剰に心配している。

そして「プラスになること」も「マイナスになる」ことも過剰に恐れている。

できるだけ「フラット」な状態であること。

誰からも嫌われないこと。

そのように育ってきた延長線上に職場での振る舞いがある。

「個」を消すことをベースとしたコミュニケーション

無味無臭というか、没個性的というか、とにかく「個」を消すことが彼らのコミュニティではとても重要な要素なのだろう。

悪目立ちをしてはいけないし、かといって「ぼっち」にもなってはいけない。

どちらも嘲笑の対象となってしまうから。

適度な距離感を維持していくこと。

それをベースとしたコミュニケーション。

踏み込まず、踏み込まれず(本当の仲間は別として)。

そんな風に僕は彼らの行動を捉えている。

彼らが本心を話してくれる可能性はとても低い

チームマネジメントをする立場の人間として気を付けなければならないのは、彼らが本心を出すことは殆どない、ということだ。

特に、上司に対して「腹を割る」可能性は、今までの世代に比べてとても低い。

どんなに仕事が上手くいっていなくても、楽しくないと思っていても、それをそのままの形で曝け出すということはない。

今までと同じような顔で仕事をしていたと思ったら、急に辞めてしまう。

そしてその兆候はないか、殆どない。

そんな感じで目の前から彼らはいなくなってしまう。

そういった話を聞くことが増えてきた。

上手な喧嘩の仕方を知らずに猛獣たちの中へ

これを「堪え性がない」ということではないと僕は考えている。

そして、0が100になった(急に閾値を超えた)ということではない、と思っている。

ただ、単純にそれを表現できないのだ。

というか、本人としてはそれを表現しているつもりなのだろうけれど、その差異が分かりづらいので、上手く伝わらない、ということなのだろう。

途中経過というか、コンフリクトというか、そういうものが会社を辞めるにあたってはあるのが当たり前だと思っている僕ら(やその上)の世代からすると、「話してくれればいいのに」と思うのだけれど、そういう人間同士の「ささくれ」みたいなものを生むことにとても大きな抵抗があるのだと思う。

たぶん彼らだけの世代であれば、その微妙な差異を感じ取って、適度な距離感を保ち続けられる、お互いに境界線を侵害しないようなコミュニケーションを取れるのだろうけれど、残念ながら社会には色々な人間がいるし、センサー自体を持っていない(ぶっ壊れている)モンスターみたいな人もいる。

そういう人たちとの「上手な喧嘩の仕方」というのは、ある程度自らの血を流さなければ(そして返り血を浴びなければ)体得できないものだけれど、彼らはそういう経験をあまり経ずにジャングルに投げ込まれてしまっているのが実情だ。

上辺の忠誠心はマネジメントの邪魔にすらなる

もちろん、上品な振る舞い仮面のような笑顔によって、上司(や周囲の人間)と上手くやっているように「装う」ことはできるし、それを忠誠心だと勘違いするような上司もたくさんいるので、その戦略が間違いであるとは言い切れない。

そして、職場というのはあくまでも「そういうもの」で、そこで本心を曝け出すべきではない、という考え方には共感すら覚えるのも事実だ。

ただ同時に、それでいいのだろうか、と僕は思うのだ。

余計なお世話だと思うけれど、そのような働き方では仕事は面白くならない。

そして、マネージャーとしてはそれでは困るのだ。

チームで成果を出すのがマネージャーの仕事であるし、その為には彼らの上辺の忠誠心は邪魔だとすら思っている。

それでは成果をあげることはできないからだ。

「いいね!」ベースではないコミュニケーション

僕は率直なコミュニケーションを好む。

本質を突いた話し方を好む。

僕の意見は僕の意見でしかなくて、そこに余計な忖度は不要である。

彼らは兎角「いいねベース」のコミュニケーションを取りたがるけれど、僕はむしろ異論や反論があった方が面白いと考えている。

漂白されていないもの、ろ過されていないもの、空気清浄機を通していないもの、そういったものをそのままの形で出すことを僕は肯定する。

奥底にあるドロドロとした暗いもの、野生のようなもの、を僕は面白がる。

すると彼らは一様に驚く。

親も教師も友人も、そのような形のコミュニケーションを取る者はいなかったのだろう。

でもたぶん渇望しているのだ。

そういう本音ベースの話を本当はしたいと思っているのだ。

本音への渇望と信頼感

僕は彼らのように上司に対しても阿らないし、嫌われたら嫌われたで構わない、というスタンスでコミュニケーションを取る。

それがたぶん彼らには新鮮であるのだろう。

面白ければ面白いというし、つまらなければつまらないと言う。

本音も建て前もない。

そのような人間を彼らは信頼する。

純粋であるがゆえに、衒いや外連味がないものを彼らは求めている。

意識的にやっている訳ではなかったけれど、だんだんと僕としてはやり易い環境になってきたことは事実だ。

若手社員がチームの中心となり、それが大半を占める(そして今後更に増えていく)環境下で、僕はまた今日もいい仕事をしていくつもりだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

全てをわかっている、というような振舞い方をする若手たちと日々仕事をしています。

そのような振る舞いは時に小賢しく、小癪であるのですが、一方でそれは彼らなりの自己防衛の一つの手段なのかな、とも思ったりもします。

わからなかったり、知らないということを表明したりすることは、その場の空気を乱す行為で、流れを淀ませてしまう種類のものである、という観念に彼らは過剰に囚われている(そして恐れている)ように僕には思えます。

そうならないように、そこからはみ出さないように、そのように見えないように、彼らはその場の状況に合わせて知ったかぶり(たぶん彼らは知っていると言うでしょうが、ググって知った気になったものと体験したものは大きく異なります)するのでしょう。

僕はその外殻みたいなものを遠慮なく叩き壊していきます(コミュニケーションの作法を知らない原始人のように)。

上手く言えないのですが、彼ら自身も実は自分達のコミュニケーション・スタイルを本当は好んではいないのではないか、と思う時があって、だからこそ僕みたいな遠慮のない話し方が支持されるかもしれません。

彼らの親や教師の世代のような建前と本音が乖離した話し方を僕はしないし、たぶんそのような大人たちに無垢な彼らは裏切られてきたからこそ、自己防衛的になっていて、その対極にいる僕みたいな人間が面白く(かつ奇異に)思えるのでしょう。

よくわかりませんが、ようやく僕の時代がやってきたようです(笑)。

トムとジェリーのように、彼らと仲良くケンカしながらこれからも仕事をしていこうと思っています。