働かない社員を働かせるのに体力や気力を使うのをもうやめたい

体力と気力ではもう限界
今日の話はタイトルの通りだ。
以上。
終わり。
いや、でも本当にそう思うのだ。
働かない社員を働かせるのはマネージャーの仕事なのだろうか?
大方の人は「そうだ」と言うだろう。
でも果たして本当にそうなのだろうか?
僕は疑問に思っている。
マネージャーの立場が会社によって違うと思うので、一概には言えないけれど、僕の場合は人事権も賃金査定権もほぼないに等しいし、そもそも職位として「労働者(経営サイドではなく)」であることは変わらないので、余計にそう思うのかもしれない。
働かない社員を働かせる為には、(もちろんマンパワーも必要ではあるが)仕組みが必要である。
そしてその仕組みには、成果主義的な要素を入れ込むしかない。
今日はそんな話だ。
賃金は仕事のバロメーター
働く目的は人それぞれである。
給与、自己実現、社会的承認、権力欲、社会貢献、成長、まあ本当に人それぞれである。
ただ、その中でも、「給与」というのは、大きな意味合いを占めると僕は考えている。
というのは、「給与」というのは、もちろん賃金(カネ)という意味合いもあるけれど、仕事に対する対価(バロメーター)の役割も果たしているからである。
高い給与を貰っている人は、きっと重要な仕事をしているにちがいない。
僕たちは無意識にそう思っているはずである。
相対的な賃金をみんな気にしている
そして、相対的な賃金(「自分が他人と比べて」どのくらいの賃金を貰っているか)は絶対的な賃金(「実際に」どのくらいの賃金を貰っているか)よりも重要である。
なぜなら、それは疑似的に「人の評価」というものに繋がる(と考える)からである。
絶対額ももちろん重要ではあるが、自分の仕事に見合った対価があるかどうか、というのが労働をする上ではまず重要である。
そしてそれは絶対的な金額もそうであるが、相対的なもの、例えば同僚と比べてどうなのか、ということを人はとても気にするのだ。
これがあまりにも差があり過ぎると、社内がギスギスする。
変動が大きいと、社員の生活設計も難しくなる。
だから、あまり差をつけないようにしよう。
これが現在の賃金制度の構造である。
分配するものがない
年功賃金や家族主義的経営など、日本資本主義というのは、社会主義的要素を組み込むことで発展してきた。
それはもちろん中間層の厚みを増す為にはとても重要な要素であったのだろう。
ただ、それはあくまでも、社会全体が発展している場合のみ(例えば高度経済成長期)である。
分配するものがなければ、分配はできない。
それを無理に分配しようとするから、歪みが生じる。
僕はそんな風に考えている。
働かないことのツケは自分で払うべきでは?
今回のタイトルの通り、僕のマネージャーとしての仕事は、働かない社員を働かせるのに体力や気力の大半を使っている。
というのは、働く社員は(僕の体制では)勝手に働くからだ。
このブログで書いているように、僕はできるだけメンバーのやることを減らすことに注力することで高い生産性を維持している。
そういう意味では、「できる社員」向けの環境である、と言えるかもしれない。
一方で、それに甘えて、働かない社員は一定数存在することになる。
僕は1on1などでそういう社員たちをモチベートすることで、何とか乗り越えようとしているけれど、何となくそれだけでいいのだろうか、と思うことが増えてきた。
そもそもの仕組みを変えてしまえば、働かないことのツケは(もう少しダイレクトに)その人に回ってくるのではないか?
それもとても分かり易く?
働いた社員に多く、そうではない人には少なく、って過激なのだろうか?
行動経済学ではないけれど、人を動かす為には仕組みが必要である。
動機付けが適切に出来れば、人は動くのである。
既述したように、人の働く目的はそれぞれであるので、カネだけがその動機になるわけではない。
ただ、一つの尺度としてそれは依然として有用である。
僕は働いた社員に多く、働かない社員には少なく、というような当たり前のことをやりたいと思っている。
もちろんそこには人の評価が入り込むので、ある種の恣意性は避けられないだろう。
ただ、例えそのような弊害があるとしても現在の状況よりはマシなのではないか、と思うのだ。
というよりも、それは評価者側の問題であって、そのような評価者を更に上の評価者が適切に評価すればいいのではないか、とすら思うのだ(もちろん限界はあるだろう)。
硬直性があり過ぎるとマズいので、適度に評価者と被評価者が変わっていくような流動性は必要になるだろうし、「好き嫌い」という要素をできるだけ排除するような仕組み(定量面をどのくらいのウエイトにするか)も必要となるだろう。
コレクトネスとは?
難しいことを言っていることは理解している。
ただ、何となく馬鹿らしく思う時があるのだ。
言論環境と同じように、労働環境にも「正しさ」が入り込んでいる。
その「正しさ」は否定しないけれど、それでも釈然としない思いが僕にはある。
もちろん全ては「程度」と「バランス」の問題ではある。
ただ、それがちょっと偏ってしまっているような気がしているのである。
いや、ただ疲れているだけなのかもしれない。
次回はもう少し明るい話を。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
リスクとリターン。
権利と義務。
言葉は何でもいいのですが、安全地帯から得たいものを傷つくことなく得られると思っている人が多すぎるように感じています。
好かれようとすれば嫌われる。
得ようと思えば失うものがある。
それが人生なのでは?
僕はそんな風に思っています。
沈みゆく国の素晴らしき国民たち。
疲れることも多いですが、流されずにきちんと仕事をしていきましょう。