現場主義とエセ現場主義
正しい言葉と空の言葉
現場主義を否定する人はいないだろう。
「大切なことは現場にある」という命題は、否定しようのない「正しい言葉」である。
ただ「正しい言葉」というのは、「空語」になる可能性を秘めた言葉でもある、ということは頭に入れておいた方がいい。
誰にも否定ができない言葉というのは、何も中身がない言葉である可能性がある。
これは標語が軽んじられるのと同じである。
「まあ言っていることはわかるんですけどね…」、という「…」の部分に本当は大事なことが隠されているのだけれど、多くの人はその「…」の部分の重要性がわかっていない(ように僕には見受けられる)。
この「…」の部分を捨象した現場主義を、今回は「エセ現場主義」と名付けることにする。
あなたの職場にもエセ現場主義者がいるはずだ。
それでは話を始めていこう。
「言っていること」ではなく「起こっていること」
マネージャー経験を重ねていくにつれて、現場主義とエセ現場主義というのは大きく異なるものであるということがわかってきた。
その違いを端的に言うと、「現場の言っていることを自分の言葉に置き換えられるか」「抽象化してエッセンスだけを抜き取れるか」どうかである、と僕は思っている。
エセ現場主義者は、とかく現場が「言っていること」を大事にする。
でも大事なのは「言っていること」ではなく、「起こっていること」である。
そしてその「起こっていること」を「言語化すること」である。
よくわからないと思うので、もう少し詳しく書いていく。
「主観的な不満=現場の声」ではない
これは具象と抽象と言い換えることができるかもしれない。
いや、具象であればそこにはある程度客観性が含まれているけれど、「現場の声」には客観性よりも「主観性の成分」が多すぎる。
要は、事象よりも「その人」が前面に出過ぎてしまうのだ。
そして「その人」は、(往々にして)言語化能力が低いことが多い。
結果として、「現場の声」というのは「その人が思っていること(主観的な不満)」になりがちで、「その人にとって都合の良い方向に変えること」が「現場主義」であると勘違いしてしまうことがよく起こることになるのだ。
これをダイレクトに受け止めることを、僕は「エセ現場主義」と呼ぶ。
抽象化して言語化して適用する
現場の声は必ずしも正しい訳ではない。
正しいというのが主観性を伴うものであると考えるのであれば、次のように言い換えてもいい。
現場の声は必ずしもリアルである訳ではない。
それをきちんと理解し、現場の声を蒸留して、抽象化して、言語化すること、それを適用すること、これを僕は現場主義と呼ぼうと思う。
キーワードは、抽象化、言語化、行動、データ、論理、そんな感じである。
鮮度が高いものが良いものとは限らない
自分自身の経験を振り返って、反省も含めて思うのは、「現場の声をできるだけそのままの形で活かすことが良いマネジメントなのだ」という考え方は、大きく間違っている、ということである。
鮮度が高い方が良いものである、と駆け出しの頃の僕は思っていた。
そこには真実が含まれていて、それを自分を含め、上位者は理解していない、と。
だから、現状は改善していかないのだ、と。
声を聞くことではなく行動を見ること、そこで起こる事象を体感すること
でも、今になって思うのは、それは間違いである、ということである。
それは現場を軽視する、ということとは異なる。
現場の声を鵜呑みにするのではなく、その実態(行動)を自分の目で確かめ、その行動の背景にある事象(具象)を抽象化すること、それを言語として自分で表現(言語化・抽象化)し、現場に戻すこと、これが真の現場主義である。
大事なのは声を聞くことではなく、行動を見ることである。
そこで起こる事象を、体感することである。
耳と目と口
よく偉い方々が「現場の声を聞く」と言って、末端の職員も含めて面談を行うけれど、僕はそれだけで現場を知った気になって、それを経営に活かそうとするのはちょっと違うような気がしている。
聞こうとするスタンスはいいけれど、それはあくまでも「声」に過ぎなくて、その「裏取り」を誰かに任せるのではなく、自分で見ることが重要だからである。
耳(聞く)と目(見る)。
その双方があって、その上で口(言語化)が大事なのである。
無敵の言葉
ミドルマネージャーが難しいのは、自分の上司がエセ現場主義者の場合である。
現場の声が真実である、と心から思っている上司の時である。
これは階層が深くなればなるほど、組織が大きくなればなるほど、起きやすい事象である。
そして冒頭にも書いた通り、「現場主義」という旗印は誰にも否定できない「無敵の言葉」でもある。
言葉を言うのは簡単で、行動するのは難しい。
でも「エセ現場主義者」は行動を見ている訳ではない。
言行一致こそがマネジメントの要諦であるのに、大事な行動の部分を見ずして、何がわかるというのだろうか?
血を流してから再戦を
世の中には口だけの人がたくさんいる。
そしてそれも達者な人がたくさんいる。
それに迎合することはマネジメントとは呼ばないし、現場主義とは呼ばない。
現場にいる人の声を聞くことは、良いことをしている、という自尊心を満たしてくれる。
自分は行動が速く、よき理解者である、という自己像を強化できる。
でもそれは思い上がりだ。
そんなに簡単に理解できるほど、現場は甘くはない。
泥に塗れてから、血を流してから、リマッチしましょうか。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
今回のテーマは現場にいる人間として心に留めておかなければならないものだと思っています。
我々日本人は「お上は分かっていない」という話型が好きですが、一方で現場が必ずしも正しい訳ではないというのが僕の正直な実感です。
そしてその現場の声を鵜呑みにすることは愚の骨頂でもあります。
そんな現場主義とエセ現場主義の微妙なニュアンスの違いが分かる人を、僕は同志と呼びたいと思っています。
ご賛同頂けたら幸いです。