「なぜ給料が上がらないのに頑張らなければならないのか?」と問われたら?

UnsplashJp Valeryが撮影した写真

頑張る必要性?

現在マネージャーとして仕事をしている上で難しいと感じるのは、「頑張っている人に対して報いる手段がない」という点である。

それは現在時点もそうだし、将来時点でもそうだ。

「今のような働き方を続けていても、たぶん我々の給料は上がらないし、上がったとしても雀の涙程度のものである」

「そのような状況が予見される中で、なぜ歯を食いしばって頑張らなければならないのか?」

部下にそう問われたら、あなたは何と返しますか?

もっと言うと、「頑張っていてもいなくても、大して給料が変わらないという現実の中で、なぜ私だけが頑張らなければいけないのか?(サボっているあいつはどうなんだ?)」と聞かれたら、なんて答えるだろうか?

僕はその問いに答えられる自信がないまま、仕事をしている。

参考になるかわからないけれど、今日はそんなことを書いてみようと思う。

たぶん、頑張る必要は、ない

まずは自分のことから。

僕がマネージャーになって驚いたのは、マネージャーになっても給料が殆ど変わらなかった、という事実である。

それはそれ以前にも何となくは聞いていた話だったけれど、実際の辞令を見て、そこに書かれている給与額を見て、「本当のことだったのだ…」と呆れたというか、妙に納得したことを覚えている。

「それなら確かに頑張る必要なんてないよな」

これが本当に色々なものを削ぎ落した後の僕の率直な感想である。

マネージャーは割に合わない

はっきり言って、マネージャーという仕事は割に合わない。

それまでの給与水準と大して変わらないくせに、責任度合いは一気に増すからだ。

もちろんこの先もそれは変わらない。

仮にもっと出世したとしても、この「角度」が急上昇するなんてことはあり得ない。

なだらかな坂道(平坦?)。

それなら現状維持で構わないのではないか?

そんなことが頭をもたげてくる。

気づかないフリをしないとやっていられない

僕の(僕らの)そのような現状を見て、部下や後輩が必死になって仕事をするわけがない。

僕はそんなことを思う。

自分達だって疑問に思っていることを、部下や後輩に求めることはできない。

でも、そのような「擬制」をすることがマネジメントという仕事の一側面であることも事実である。

みんな気付いている。

でも、気付かないフリをしないとやっていられない。

だから、演技を続ける。

その体たらくの結果が、この停滞なのである。

「やりがい」ごっこ

一昔前までは、「やりがい搾取」というのが1つの方法であったのだろうと思う。

「人から感謝されるから」であるとか「社会的な意義があるから」という理由をつけて、そのような給与が上がらない現状を誤魔化し、長時間働かせる、働く側も自分を納得させる、そんな状態で何とかモチベーションを維持していたのだろうと思う。

でも、その覆いはもう外れてしまった。

現場の頑張りではもう限界

時折、モチベーションアップ的な話を部下の前でする時に、自分がこの「やりがい搾取」を助長しているのではないか、と思う時がある。

僕は営業育ちなので、比較的口は上手い方で、部下のモチベーションを上げるのは得意な方ではあると思う。

でも、それをやればやるほど、本質的ではないことに気づいて嫌になってくる時がある。

本当は誰かに言われなくても、給与が上がったり、賞与が増えたり、仕事内容が面白くなったり、することで、勝手に頑張るような仕組みであるべきなのである。

でも、それができないから、現場のマネージャーにそれを任せる。

現場のマネージャーも自分を騙しながら、それを続ける。

もう限界なのだ、きっと。

製造業的な成功体験

「日本は30年間給与が上がっていない!」と政治家は叫ぶ。

そこには様々な要因があるのだろう。

でも、実際の職場にいて僕が思うのは、「頑張る人が報われる構造になっていない」というシンプルな事実である。

もう少し正確に書くと、「頑張る」というのが「成果」と結びついていなくて、努力とか根性とか長時間労働とか、そういうものが尺度になっている、という現実である。

僕たちはずっと工業化時代の、製造業的な成功体験から脱しきれない。

楽して稼ぐこと、短時間で儲けること、アイディアで勝負すること、そういうことにもっと価値を置くべきなのだ。

みんなが製造ラインに立つように、同じような仕事を同じようにやることが良いことではないのである(この書き方は誤解を生みそうだけれど、決して製造業が悪いと言っているわけではない。あらゆるビジネスモデルが製造業から派生しているかのような現在の環境に疑問を持っても良いのではないか、という提言である)。

そして高い成果を出したとしても大して処遇が変わらないのであれば、何のために高い成果を出すのか、出す為に努力するのかがわからないのは当然のことである。

適切なサービスには適切な対価が必要

アメリカナイズされた資本主義が良いとは思わない。

流石にちょっとどうなのかな、と僕だって思う。

でも、現在の日本の状況よりはマシに思えるのだ。

適切な格差、というのは言葉にするのは簡単で、実現するのは難しいとは思う。

でもさ、というのが僕の気持ちである。

過剰なサービスを求められるファーストフード店の店員たち。

その態度がなっていないとなじる老人たち。

そりゃそうだろ、と思う僕。

適切なサービスには適切な対価が必要なのだ。

それを応分して負担することで、もう少し活力が生まれてくるような気がするのだ。

頑張っている人に適切な対価を。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「デフレマインド」と一言で書いてしまうと、意味が薄くなってしまいそうで嫌なのですが、そのような傾向がずっと続いてしまったことが現在の日本経済に元気がない要因であるような気がしています。

良いものには良い対価が必要で、それを支払う賢い消費者がいて、それを信頼する生産者がいて、その人達を良い給料で雇用する企業があって、その企業は良い値段で売れるから更に良いものを作ろうとして…、というような循環があれば、経済は上方向に動いていきます。

でも、この30年日本がやってきたことはその逆で、消費者を舐め、生産者をけなし、労働者を追い詰め、企業もシュリンクする…、というような、自分達で自分達を息苦しくしてきたのだと僕は思っています。

政治や経済を変えるのは一個人である僕たちには難しいのは事実ですが、日々の生活の中で、コンビニの店員さんに「ありがとう」と言ったり、安かろう悪かろうという商品に手を出さなかったりすることで、もしかしたら少しずつ状況は変えられるかもしれません。

そしてそれは自分が働いているチームでも一緒です。

皆が機嫌よく暮らせるような環境を自分達の手で作っていきましょう。