職場がホワイト過ぎて辞めたいって若手達が言っているらしい

UnsplashDrew Colinsが撮影した写真

プロレスだと理解した上で

日経新聞の記事に「職場がホワイト過ぎて辞めたい」というようなことが書いてあって、「ふむ…」と思ったので、今回はそれをネタに書いていく。

この「ふむ…」という言葉の中には色々な感情が含まれていて、何というか、一言では言い表せない、結論も別に出ている訳ではない、そんな状態のまま文章にしていこうと思う。

もちろん、ここにはメディア目線での「切り取り」「誘導」「過剰演出」が含まれていることを承知の上で書いていく。

なので、1つのエンタメとして読んで頂けるとありがたい(こんなものはシリアスに議論すべきではなく、プロレスに過ぎないのだ、きっと)。

それでは始めていこう。

働き方改革の功罪

記事のあらましを読んで僕が感じた2つの感情は、「マジ?」というものと「確かにね…」というものであった。

そういう意味では記者の狙い通りだったはずである。

「働き方改革によって長時間労働の是正が進み、職場から(表面上は)ハラスメントが減りつつある中で、新型コロナウイルスによる仕事の絶対量の減少があった。ハラスメントに怯える上司は若手に仕事を任せることはなく(結果、仕事は減り)、裁量も減り、成長の機会が失われたと感じている若手たちが焦りを感じ、転職を意識している」

まあ要約すると、そんな内容の記事である。

隘路を進んでいるのは若手だけはない

僕は現場のマネージャーを長くやっているので、この記事の内容(意味)はよくわかる。

でもだからと言って、「どうすればいいのだ?」とも思うのだ。

僕らが進んでいる隘路。

それはきっと若手だけの問題ではない。

日本社会全体の問題でもある。

そんなことがごちゃ混ぜになり、冒頭に書いたように「ふむ…」となってしまったのである。

昭和への郷愁

まず感じたのが、この記事に充満する懐古主義的な匂いだ。

古き良き日本、ガムシャラに働く労働観への賛美、それと対照的な軟弱な現在地。

背後には経済成長率の低下、日本の凋落、相対的地位の低下、そんなものが含まれている。

一言でいうなら、「昭和は良かった」、そんなイメージである。

そして「甘えてんじゃねえよ!」そういう言葉が行間に垣間見える(もしかしたら記事の書き手は昭和世代なのかもしれない)。

昭和の残り香を吸って社会人生活を始めた僕は、その言わんとすることがよくわかるし、少なからず共感もする。

でもさ、というのがその後の話である。

「それって、若手だけでなく、僕たち全体の問題なのでは?」

それが僕からの問題提起である。

サラリーマンを選んだ時点で詰んでるぜ?

マネージャーとして仕事をする中でよく感じることの1つに、若手たちは「どこを目指しているのか?」というものがある。

「どうなりたいのか?」「どのような上司・先輩が理想なのか?」そういうことを思う時がある。

と、同時に、サラリーマンという職業を選んだ時点で、何らかの種類の「負荷」を負う必要が生じると僕は思っている。

ある種才能がない人達が集まったのがサラリーマンという職業で、その中で「いい仕事」をしていくには、それなりの鍛錬や修練が求められる。

もちろん昭和時代のように、それが外部からもたらされる必要は必ずしもない。

それならそれで、自分なりに克己して、能力を高めていくしかない(それもかなり強い自制心を持って)。

でも、僕から見える若手の多くは、そんな気概を持っているようには見えない(ごく1部には存在するが)。

ホワイトな環境って単純に良くね?

僕からすれば、職場がホワイトであるということはメリットでしかなくて、でもそれは僕が若手時代にブラックな環境で鍛えられたからかもしれない、とも思うのである。

じゃあ、その僕の鍛えられた体は、外部のブートキャンプがあったからそのようになったのかと問われると、「そんなことはないよな」と思うのである。

自由な環境においてはその人の意思が重要となる

僕が会社に入った時、僕に1番近い年齢の先輩は20歳以上離れていて、職種も別であった。

社会人のイロハ的な(かなり古風目の)話は教えてくれたけれど、基本は「背中を見て覚えろよ」的なスタンスで、指導という指導なんてなかった。

もちろん本当に新入社員中の新入社員の時は、「これ、大丈夫?」と思ったけれど、その状態が続いたこともあって、「じゃあ、オレはオレなりに好きなことをやろう」と自分の仕事の領域を自分で作っていったし、その領域を広げるために資格の勉強をしたり、本を読んだり、専門家と呼ばれる人に話を聞きに行ったりしたものである。

それで良くないか?

受動的かつ評価を他者に委ねる人達

これは若手だけの問題ではなくて、多くの社会人がそうなのだけれど、「受動的」な人が多過ぎるのである。

そしてその「評価を他者に委ねる」人が多過ぎる

その果てが、この日本の30年以上の停滞である。

言い過ぎだろうか?

でも、本当にそう思うのだ。

好きに踊れ

だから、若手達は好きなようにやればいいと僕は思う。

既存の価値観で偉そうに言っているおじさん達は、もう30年以上も失敗し続けているのだ。

その人達からの指導って必要ですか?

現代は「答えを見つける」のではなく、「問いを見つける」ことが大事だと山口周氏のどれかの著書に書いてあったと思うけれど、僕も本当にそう思う。

好きに踊れよ。

ありきたりなステップなんて学ぶ必要ないだろう?

Shall we dance?

もちろんそこには基礎が必要だ。

それが訓練できないと嘆く気持ちもわからないではない。

でも、そんなものは幻想だ。

もしくは旧時代の遺物に過ぎない。

自分なりのリズムとステップで、無様に舞うこと。

恐れずに、そこに踏み出すこと。

僕はそうやって生き残ってきたつもりだ。

君たちも一緒に踊らないか?

僕はそのダサい感じを思い切り笑ってやるつもりだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

無様な姿は見せたくないし、自分でも見たくない。

よくわかります。

でも、それを通過することでしか、得られないものがあります。

無様な自分と向き合う経験は、他者への優しさを育みます。

傷だらけの体で、少し狂った頭で、舞うダンス。

僕はそれを何よりも美しいと思います。

音とリズムに身を任せていきましょう。