0と100の間に答えはあるぜ?
グラデーションの中に答えを探す行為をマネジメントと呼びたい
0と100のどちらかに判断をすることを、「潔い!」と評価する人がいる。
というか、そちらの方が大多数であるように感じている。
でも、何か問題が生じた時に、「やる(100%)」か「やらない(0%)」と決めるのはむしろ簡単で、僕たちマネージャーの仕事というのは、「100%ではできない状況の中でどうやってやるか」もしくは「どうやってもやるのは難しい(0%)けれど、何とかできる方法はないか」ということを探ることなのではないか、と僕は考えている。
判断というのは、そんなに簡単に割り切れるものではない。
というか、割り切っていいものではない。
グラデーションの中に答えを探す行為を僕はマネジメントと呼びたいのだ。
この当たり前の話、そりゃそうだ、と思ってしまうようなことが、案外できていない人がマネージャーを自称している。
今日はそれに対するアンチテーゼの話だ。
それでは始めていこう。
判断なくして、マネージャーにあらず
マネージャーの仕事は「判断」である。
多くのプレイングマネージャー達を向こうに回して、そんな大見得を切るところから話を始めてみる。
判断なくして、マネージャーにあらず。
そのくらいマネージャーにとって、判断という仕事は大事なものである。
でも、プレイングマネージャーのように、自身がプレイをしている状況だと、この判断の精度が下がってしまうのである。
それはなぜか?
単純に視野が狭くなるからである。
判断と判断「風」は違う
競技をしている最中において、自分を客観視することはとても難しい。
試合の中で選手として自分がプレイしている時に、切れ味のある判断は不可能である。
この当たり前の感覚が多くのプレイングマネージャーにはわからないようだ。
彼(彼女)らは、僕から言わせれば、判断「風」のことをしているに過ぎない。
そしてそれが今日のテーマに繋がってくる。
「えいやっ!」は判断ではない
判断というのは、0か100か、どちらかにbetすることではないのだ。
その間の、90とか75とか23とか、そのような淡いの部分の中で、どこに目盛りを合わせるのかを言うのである。
そしてその目盛りを合わせる為にはリスクを取る必要があるし、リスクを取るためにはデータを集める必要があるのだ。
決して、「えいやっ!」とやること(だけ)が判断ではない。
このニュアンスを是非とも感じ取って欲しい。
中止はノーリスクでもある
グラデーションの中における判断というのは、人によっては「煮え切らないもの」と映ることが多いように思われる。
「男らしくない」というか。
でも、真のリスクテイカーというのは、これができることなのではないか、と僕は考えている。
中止するのは簡単だ。
ノーリスクだから。
もちろん、方々にお知らせをしたり、謝ったりする必要は生じる。
でも、その先はノーリスクだ。
予期せぬ事態、というのは起こりえない。
ただ、あまりにも安易なのではないか?
そう思う時があるのだ。
英断とは?
「リスクを真剣に考慮した上で、中止にしました」
判断を行った者はもちろんそう言うだろう。
でも、本当にそうなのだろうか?
データを収集し、感覚に頼らず(例えば科学的根拠に基づいて)判断を行ったとは僕には思えないことが多くある。
それを「英断」と言う人も多い。
全ては結果論ではある。
でもさ、というのが今日の話である。
シュリンクしてしまう気持ちはわかるけれど…
開催と中止の中にはグラデーションがあって、その中でリスクを取りながら開催の方向に目盛りを動かしていくことが、リーダーの役割なのではないか?
僕はそんな風に思うことがある。
でも、リスクがある状況で開催をしてしまうと、何か問題が生じた時にはその責任という矛先がリーダーの方に向かってきてしまう。
だから、やらない。
気持ちはわからないでもない。
この日本社会というのは、それを必要以上に叩くから。
当事者ではない人たちが、謎の正義感を手に、寄ってたかってリンチを行うから。
それならやらない方がいい。
わかる。
でも、たぶんそれではダメなのだ。
絶望の中に一筋の光を見出せることがリーダーシップだ
リーダーシップという言葉。
どうやら前向きな状況においてみんなを引っ張っていく、というイメージをお持ちの方が多いようだ。
でも、僕は違う。
ある種絶望的な状況の中で、一筋の光を見出すことがリーダーシップなのである。
それは別に「リーダー」という立場にいなくてもできる行為だ。
そして僕たち日本人はそれが圧倒的に苦手だ。
誰か上の立場にいる人が判断を行ってくれ、それに従っていればいい、と無意識に思っている。
判断には参画せずに(結果としてリスクを負うことなく)、どちらに転んだにせよ、不満だけを撒き散らしている。
それは子供だけが許される行為なのだ。
リスクを取り、判断を行う習慣。
それがないから、他人の判断に対して、必要以上に苛烈になってしまうのだ。
神風は吹かないし、想定外は起きる
それに怯えた人たちは、安易に0と100のどちらかで判断を行ってしまう。
無謀な100と、完全防御の0。
神風は吹かないし、想定外は起きる。
判断というのは、その中で行うものだ。
リスクを取ろう。
その習慣をつけよう。
せめてマネージャー層だけでも。
そうすれば、僕たちは判断を行う人間に対して、もう少し寛容になれるはずだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「判断」をしたことがないから、他人の判断に必要以上に苛烈になってしまう。
日本社会の現状について、こんなことを僕は思っています。
0も100も、判断とは言えません。
でも、僕たちはそれを判断だと思っている。
というか、0か100かすらも判断したことがない。
それが多くの「ただ批判するだけの人」を生んでいるような気がしています。
リスクを負う人に寛容になれるよう、できる範囲で判断をしていきましょう。