リーダーシップって言いたいことを言えることだと思うんだよな

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主語を明確にして話せるだけで

何だか相田みつを(もしくは居酒屋のトイレにある親父の小言)みたいなタイトルになってしまったけれど、リーダーシップについて考えることがあって、そのイメージの違いみたいなことを思ったので今日はそれを文章にしていこうと考えている。

多くの人が考えるリーダーシップというのは、「みんなを引っ張っていく」ようなイメージで、ドラクロアの有名な絵画(民衆を導く自由の女神)のように、「Follow me!」と叫ぶことができることがリーダーであり、リーダーシップの現れである、そう考えているような気がしている。

もちろんそれも大事ではある。

でも、そこまで行かなくても、「私はこう思う」ということを、忖度抜きに(もしくは忖度をだいぶ薄くして)話せることなのではないか、と僕は最近思うのである。

いつも言うように、マネージャーは言葉を浮かせないことが大切であり、言葉を浮かせないためには主語を明確にして話す必要がある。

そして主語を明確にして話せるということは、それだけで(特に日本社会においては)リーダーシップを有するということになるのではないか?

今日はそんなことを書いてみようと思う。

Lucas would say.

学校もそうだったと思うけれど、会社も同じ(というかもっと?)で、「個人の意見を表明する」というのはなかなか難易度が高いものである。

「いやいや、個人の意見の表明なんて簡単でしょ?」

「というか、個人の意見を表明しないなら、その人がそこにいる意味なんてないでしょ?」

僕の友人のアメリカ人ならそう言うだろう。

彼の言うことはごもっともである。

でも、そんなに簡単なことじゃないのが、日本社会の摩訶不思議なところである。

主語のない会議

「議論」というのは、ある人ともう一方の人が主語を持って意見を表明し合うことが1つの成立要件で、それが当たり前の話として成立しないのが日本という国である、と僕は思っている。

「誰が」そう考えているのか、そう感じているのか、が明確にされないまま、会議というのは進行していく。

結果、その議題がどのような進行を経て結論に至ったかが不明瞭になりがちだし、実際に実行後、仮に失敗に終わったとしても、その責任を負う当事者が不明確になってしまう。

これは誰か特定の人を糾弾したい(「責任者出てこい!」)とか、そういうことを言いたいわけではない。

何というか、それを教訓として、次へ進みたいだけなのだ。

そして、このような「議論」の裏側では、「裏話(陰口?)」みたいなことがよく起こっている。

会議の直後もそうだし、結果が判明してからもそうである。

「いや、オレは上手くいかないような気がするんだよね…」

「やっぱり、失敗したよ…」

みたいな言葉たちが、廊下や喫煙所や居酒屋で交わされている。

気持ちはわからなくない。

僕だってそうすることはよくあるから。

でも、それだけでは、それを繰り返すだけでは、いつまでも前に進めないんだよな。

Oliver would laugh.

僕だって(日本の)組織人の端くれなので、会議の中で言いたいことを言うことは憚られるというか、恐怖を感じることはとても多い。

その場では平静を装っているお偉方も、裏側ではどう思っているか全くわからないし、実際に意見を表明したところでそれが採用される訳でもないから、何だか「言うだけ損」みたいな気持ちになってしまうのも事実である。

でもさ、というのが今日の話である。

少しずつでも、それを変えていかなきゃダメなんじゃないだろうか、と僕は思っている。

今まで10言いたいことがあっても、10全て言えずに会議が終わっていたとするなら、1だけでも言うようにする、とか。

そのくらいの、亀みたいな歩みでも十分なのでは?

もしくは、大きな会議では難しくても、小さな会議では主語を明確にして発言をする、とか。

上述したアメリカン(この言い方も彼は嫌うが…)に言ったら、爆笑されるだろう。

本当は僕だって、それを笑い話にしたい(きっとイギリス人ならそうするだろう)。

でも、それが「ザ・日本」なのである。

主語を明確にして話すこと。聞くこと。

こんな風に偉そうに書いているけれど、僕だって今それを上手くできている訳ではない。

ただ、それを少しずつでも変えていこうと思っているし、実際にそのように発言して変な空気になることにも慣れてきたところである。

最初はおっかなびっくりだったし、今だって成功しているとは言えないけれど、それなくしてリーダーシップなんて生まれない、と自分に言い聞かせて、僕はそれを続けている。

それはもう少し小さな単位の僕のチームでもそうである。

メンバーに主語を明確にして話してもらうようにすること。

それを聞く人も、それが当然のことであると、きちんと認識すること。

結果がどうであれ、リスクを負った人を称賛する風土を醸成すること。

それが僕がやっていることである。

リスクを取ろうぜ

リスクを取らなければ、責任を明確にしなければ、得られるものも少なくなってしまう。

それが曖昧なままだから、僕たちはいつまで経ってもそこに停滞しているような気分になってしまうのだ。

そしてリスクを取る人が増えれば、その痛みや大変さも我が事として受け入れられるようになるだろうし、結果として、もう少し寛容な社会になるのでは?

僕はねえそんなことを考えているんだよなあ(相田みつを風に)。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

相手の気分を害さずに、自分の意見を言うのは結構な技術がいります。

でも、そう考えているのは、僕たち日本人だけなのかもしれません。

海外の(特にアメリカの)人と話をすると、なぜ僕たちはそこまで相手に(いらぬ)気を使っているのか、不思議な気分になることがあります。

もっと言えば、意見がないこと、考えを述べられないことが、とても恥ずかしい感じがする、というか。

合っているか、間違っているかで言えば、僕たち日本人の言っていることは合っていることが多いような気がします。

でも、俎上に載せなければ、なかったことにされてしまいます。

相手のことを考えることも大事ですが、どうせ相手は自分では変えられぬ他人です。

もう自分の少し意見を表明していきましょう。