影響力は出すものじゃなく出るもの
越境侵害という感覚
「ウエノさんは影響力があるので、もっと色々な発信をしてくださいよ」
そんなことを言われることがある。
チームの垣根を越えて、もっと全体を見ながら発信をして欲しい、というのが彼(彼女)らの考えのようだ。
確かに。
僕には自分のチーム以外のことはどうでもいい、と考える傾向がある。
というか、越境侵害のような感覚があって、他チームのことは他チームのマネージャーが責任を持って取り組んでいるはずなので、それに対して僕がとやかく言うのは違うのではないか、そんな風に思うのだ。
なので、基本的には自分のチームに関すること以外は遠慮がちに仕事をしている。
でも、影響力がある、とも言われる(言ってもらえる)。
一方、僕よりもたくさん発信をしているマネージャーはたくさんいるけれど、そちらの方にはあまり需要はないようだ。
さて。
そんなところから僕が考えたのは、影響力というのは出すものではなく、勝手に出るものではないだろうか、ということである。
よくわからないと思うけれど、今日はそんな話をしてみようと思う。
影響力が出るか否かというのはアンコントーラブルだ
以前に、言葉というのは安売りをしてはいけない(価値が下がるから)というようなことをこのブログに書いた。
今回の話もそれと似たような話なのかもしれない。
ただ、前回の話と違うのは、言葉を安売りしないことによって起こる結果が影響力である、というように、普段の「行動」の蓄積(累計)によってもたらされる「状態」が関係している、ということである。
要は、一足飛びにその状態にはなれない(経路を経ないと、そのような状態にはなれない)ということである。
そして、そのような影響力がある状態というのは、なろうと思ってなるものではなく、勝手になるものである、ということでもある。
アンコントーラブル(uncontrollable)である、というか。
「状態」は狙って出せるものではない
僕たちができるのは普段の行動をどうするかであって、そこからもたらされる状態というのは、相手が勝手に判断するものである。
そして、結果として生まれるのが、その「状態」である。
だから、影響力を出そう(出したい)というのは、ちょっと本末転倒というか、本質的ではないように僕には思えるのだ。
自己顕示欲のダダ洩れ感
ただ、マネジメントという仕事を長くしていると、このような「影響力の誇示」にまつわる行動というのが目に付くようになってくる。
どのマネージャーも自己アピールというか、自己顕示欲の発露というか、とにかく「オレすげええええええ!」が強すぎるように思うのだ。
もちろんそれが実際の影響力に繋がっているなら、僕がどうこう言う必要はない。
ただ、どうも部下には響いていないように僕には見受けられる。
このギャップ。
さあ、どうしましょうか?
手を伸ばす行為自体が、欲しいものを失わせる原因となる
僕は物事を考える時に、トレードオフという概念を使うことが多い。
何かを得ようとすれば、何かを失うことになる。
両取りはできない。
そのように考えると、影響力を出そうとする行動というのは、何らかのもの、例えば求心力を失わせる可能性がある、ということなのかもしれない。
手を伸ばした先に、欲しいものは既になくなっている。
というか、伸ばしたそのこと自体が、欲しいものを失わせる原因となる場合がある。
そんな風に思ってしまうのだ。
結局のところ、自分の尺度で仕事をするしかない
マネジメントというのは本当に不思議な仕事で、自分が想像もしていないような反応(反響)が起きることが続出する。
これは良い面でも悪い面でも。
何らかのアクションが、想定外のリアクションを引き起こし、しかもそれは自分では制御することができない。
だから、結局のところ、自分がその行動や言動に対して後悔がないか、というところに重点が置かれるようになる。
後で振り返った時に、「ダセえな」と未来の自分自身に思われないようなアクションを行う。
それしか僕らにはすることができない。
そこから引き起こされる反応については、驚いたり、失望したりすることはあったとしても、意図的にどうこうしようとしてそうなるものではないのだ。
だから、今日のテーマに即して言うなら、影響力なんてものは結果でしかなくて、それを目的に行動するというのは、的外れだと僕は思ってしまうのである。
「いや、そうは言っても、影響力を出したいんです」
そんな奇特な方がいるかもしれないので、最後にそれを書いて終わりにしようと思う。
信念と向き合っているか(そして、その矢印が自分に向いているか)
影響力というのは、何らかの信念を保持しているか、それが外向きではないか、というところに生じるような気がしている。
外部環境が変化しても、苦境に立っていたとしても、変わらずにその信念を持ち続けられているかどうか。
そしてその信念が、ある種の気高さみたいなものを持っているか。
そこに人は影響力を感じるのだと思う。
誰が何と言おうと、また、誰かに迎合することなく、その信念に対して向き合っている状態。
それも他者に押し付けるのではなく、淡々と自分に矢印を向けながら、それを継続している姿。
それが影響力が出る術だと僕は思う。
出すのではなく、いつしか自然と出ているもの。
そう信じて、今日も愚直に仕事を続けるのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
長いことマネジメントという仕事をやっていると、仏教徒というのはこのような色々なことを考えているのだろうなあということを思うことがあります。
最近の僕は「期待しない」というテーゼを持って仕事をしています。
そしてその期待しないことは決してネガティブではないというか。
何というか平らかな気持ち(泰然とした気持ち)なのだ。
悟りを開くなんて高尚なこととは程遠いかもしれないけれど、その入り口には向かっているのではないか、と思うような境地。
波が立っていない水面を見るような。
それも半眼で見るような。
あらゆる物事は相対的で、その相対さ加減というのは、僕の努力なんていう卑小なものでどうすることもできない。
でもだからと言って、運命論者のように絶望している訳でもなく、何らかの影響力は及ぼせるのではないか、そっちの方向に向かうことはできるのではないか、という希望を持った状態。
そしてそのような自分を俯瞰から眺めているようなイメージ。
執着から離れた時、人はそれを手にすることができるのかもしれません。
でも、その時には僕はそれをもう欲していない。
そんなある種冷めた状態で僕は仕事をしています。
こんな僕ですが、引き続きどうぞ宜しくお願い致します。