多様性ってなんだ?
多様性という同調圧力
今日の話はタイトルの通りで、「多様性って何なのだろうか?」とここ最近ずっと考えている。
現代は多様性の時代であると言われる。
そこでは個人が個人として尊重される(べきだ)と言われる。
個性や「その人らしさ」をそのまま包摂するような社会。
話だけ聞いていると、とても素晴らしいもののように思える。
そして、ここには日本独自の文化(風習)に対するカウンター的要素も含まれている(と思う)。
兎角日本では「横並び意識」というか、「みんな一緒」というか、「同調圧力」というか、個人よりも集団を重んじるべきであるという力が強いから。
その弊害が目立つようになってきたから。
でも、僕がマネージャーという仕事をしていて感じるのは、「多様性という同調圧力」がただそこにあるだけ(同調圧力は変わらない)というものである。
さらに言えば、その多様性という言葉には「よそ様はよそ様」「よそはよそ。うちはうち」的なある種の無関心さが付帯している。
それって多様性なのか?
今日はそんな話である。
正しさという気味の悪さ
ダイバーシティ&インクルージョン。
人々の性別や年齢、国籍などの違いを尊重し、個性を活かしながら、組織として受け入れ、活用するという考え方。
うーん。
文句のつけようがない。
でも、だからこそ気持ちが悪い。
そのように僕は感じてしまう。
多様性(を身に纏った画一化)の強要
いや、思想というか、考え方の方向性は正しいと思うのだ。
そちらの方向に向かうべきである、という主張に、基本的には僕は賛成である。
でも、日本の場合は、これが過度に進み過ぎてしまうような恐れも同時に感じている。
というのも、日本ではすぐに自警団(○○警察)が結成されてしまう(この話であれば多様性警察)から。
そして、取り締まりを始めるから。
すると、途端に僕はこの「多様性の強要」が嫌になってくる。
もう少し正確に言うなら、「多様性(を身に纏った画一化)の強要」に吐き気がしてくる。
多様性ではない多様性の取り締まり
多様性警察は多様性でないことに対して厳しく取り締まる。
それが多様性でないことを自覚することなしに。
こう書くと、意味が分かりづらいかもしれない。
でも、僕が受ける印象はこのようなものなのである。
実に島国的だ
そして、これは実に日本社会的だなあと感じてしまうのも事実だ。
何か推し進めなければならないトピックがあるとする。
それは外国からの要請からかもしれないし、時代の変化に伴うものかもしれない。
そして我が国はそこに遅れている、と。
だから、国際的な水準までキャッチアップしなければならない、と。
まあ、島国(極東)であるから、このような思考の流れ自体には別に抵抗はない(というか、自然とそういう風になってしまうのだろう)。
でも、それが推進される時には、上からの権力による強制と、横からの集団監視による強制が伴う。
また、そこには論理や数理といったものは含まれていない。
「そう決まったから、そうするのだ」という論理構造(上から下へ)。
それを律儀に集団として守ろうとする(横展開)。
こうして(今回の話であれば)「多様性を認めなければならないという同調圧力」が生じる。
規格統一された多様性
更にこの話が厄介なのは、そこにポリコレ的な要素が加わるからだ。
「多様性は認められるべきだ」というのは非常にコレクトな話である。
誰も何も言えない。
ぐうの音も出ない。
その通りな話である。
そして、(繰り返すが)僕自身もその方向性には賛成である。
ただ、である。
こと多様性という話になると、これをこの流れのまま受容するのには抵抗感が生まれるのも事実である。
パッケージングされた多様性(画一的多様性)。
お上が多様性と認めたものでしか、そしてそれを集団が多様性であると判断したものでしか、多様性だと認められない「多様性」。
僕にはよくわからない。
多様性の外側は?
もっと言えば、その画一化された多様性の外側には、多大なる無関心が横たわっている。
パッケージされないもの、既製品でないもの、エラーがあるもの、はみ出してしまったもの、については、論外という札が張られ、一蹴されるだけ。
それって多様性なんだっけ?
杓子定規な多様性
結局のところ、日本社会には、「あるべき姿」という規範が常に存在している。
もちろん、それが安定した社会運営に繋がっていることも事実だろう。
そしてそれを言祝ぐべきなのだろう。
でも、そこにはあまり「遊び」の部分がない。
バッファーというか、恣意的な運用というか、そのようなものがどんどんと失われてきてしまっている。
確かに、「曖昧な運用」「空気の読み合い」みたいなものは唾棄すべきものなのだろう。
だからと言って、あまりにも杓子定規過ぎやしないか?
ましてや、多様性という議論においては、それはもっと複雑な話にならざるを得ない(なってしかるべき)なのではないか?
僕はそのように感じてしまう。
他人に興味がないだけ?
結局のところ、僕たちは他人に興味がないのだ。
他人の多様性なんてものには関心がないのだ。
そのような無関心性がベースにあるから、集団になると、他者に対して苛烈になるのだろう。
自らが思う多様性ではないものに対する攻撃性が強まるのだろう。
よくわからない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
多様性というのは、自由や平等みたいに、欧米の文化というか、身体的実感が乏しいものだなあと感じることが僕にはあります。
もちろん、思想というか、理念というか、概念というか、そのようなものはよくわかります。
そして僕は(誤解なきように)そこに賛成です。
ただ、メイドインジャパンである僕には、そこに舶来品的な香りを感じてしまうのも事実です。
必要以上にありがたがってしまうというか。
サッカーの状況(特にラ・リーガ)を鑑みると、どう考えても多様性を尊重しているとは想えない人たちが主張している多様性(やポリコレ)の議論。
それを律儀に順守(強要)しようとしている真面目な日本人たち。
僕たちはもう既にこのままの状況である程度多様性を認めているのでは?
もちろん、日本的画一主義(同調圧力)は残存していますし、それにウンザリもしています。
そして、現在行われているのが、その流れを汲んだもの(多様性を纏った同調圧力)であるようにも思っています。
でもね?
ストレンジなもの。
その混交物。
それに自然と馴染み、面白がるくらいの余裕。
それが僕たち日本人の長所では?
神に祈り、仏に手を合わせ、クリスマスも楽しむ。
それでいいのでは?
というか、名付けてしまうことで、かえってそれが反作用的(分断や対立を生むこと)になってしまうことがあるのでは?
コレクトじゃないもの。
もしかしたらプロパーですらないもの。
多様性って、敢えて尊重しにいくものなのでしょうか(僕たちはもう既にこのままの状態で多様的なのでは)?
異質なものの異質性を楽しんでいきましょう。