文語リテラシーの重要性について

UnsplashJaredd Craigが撮影した写真

ビジネス文書とその表現力の低下

リモートワークが浸透し、ビデオ会議が当たり前のものとなった現在でも、仕事を進めるにあたって文字を使うことが多いのは変わらない、そう思っている。

そして、その文字にニュアンスを込めるのが下手な人が多いな、ということも同時に感じる。

それはビジネス上の文章において、絵文字やスタンプが使えないから(裏を返せば、日常生活において絵文字やスタンプに頼り過ぎているから)ということが関係しているような気がする。

もちろん、中間属性にあるようなスラックのようなチャットツールは別だ。

今回の話はもう少し固めのツール、例えばメールとかビジネス文書(ワードやエクセルなどで作られたもの)に関するものである。

読み手にとってフレンドリーであるか否か。

文意をできるだけ自分の考えに近いものに落とし込めるか否か。

そして、それが相手を不快にさせないだけの節度を保持しているか否か。

そのような力(表現力)が落ちているような気がしている。

今日はそんな話である。

リモート会議では議論が発展しない

営業経験が長い僕は、顔を合わせないツール(例えば電話やメール)の怖さみたいなものをよくわかっているつもりである。

それは表情が読み取れないと、伝えたいことが伝わらない、何なら誤解を招くリスクが大きい、ということを痛感した経験が何度もあるからである。

そういう意味においては、リモート会議のような顔が見えるツールは、そのような乖離を埋め合わせる為には有効なツールであると言える。

でも、これだけリモートワークが浸透してくると、集まってやるよりは簡単だから、という理由で、何でもかんでもリモート会議をやろうとする人が増え、結果、1日のスケジュールに会議の割合が増えてしまっているような気もする。

そして、実感としては、リモート会議というのは、あまり内容が煮詰まらないものでもある。

微調整、みたいなものを行うのであれば、あるいは報告を行うのであれば、それはとても便利なツールであるのだけれど、喧々諤々、異論も暴論も飲み込んで新しいものを作っていく、というような作業には向かないな、と感じる。

となると、物理的に会ってしまえば話は早いのだけれど、参加者の都合上、そうもいかない場面も相応にある。

となると、事前にある程度書面によって(文語によって)内容を詰めておく必要が生じる。

この時に、冒頭の話のような文語リテラシー(これは造語だ)の低下を感じるのだ。

口語における精度だって高くはない

「自分の思考を文字に落とす際には、それなりの欠落が生じる」

「純度100%で、自分の思考を転写することは不可能である」

それは確かにそうだろう。

でも、それは裏を返せば、口語におけるコミュニケーションにおいても同様なのではないか?

そのような疑問の提示。

そして実際に会議等で交わされている内容の点検。

それが重要であるように感じている。

会議資料の文章の質

話すのは簡単である。

コストというか、労力が殆どなく、言葉は出すことができる。

でも、そこには吟味や、取捨選択や、相手の言葉への反応度といったものは薄れるような気がする。

思いつき、とまで言うと言い過ぎのような気もするけれど、練りに練られた言葉を発するということは通常の会議などではまあ起こり得ない。

もちろん、それが口語によるコミュニケーションの利点ではあるけれど、それをベースに会議を始めると、それぞれの参加者がそもそもの考え方(議題に対する自身の意見)を吐き出すだけで相当な時間がかかる。

ましてや、これがリモート会議となれば、発言者以外の人間は基本的にはその間待機し続けることになる。

これはとても無駄だ。

でも、だからと言って、これナシでは議論が煮詰まっていかない。

そこである程度自分の考えや意見を紙に落とし、会議資料として展開し、事前に読み込んだ上で参加してもらう、という工程が生まれることになる。

そこでの文章の質。

それが今回の論点である。

硬すぎても柔らかすぎてもダメ

ここには硬軟両面において精度を高める必要がある。

硬すぎる文章も、柔らかすぎる文章も良くない。

それでいて、自分が伝えたいことを誤解のないように表現できなければならない。

かつ、相手(特に意見が異なる相手)への配慮や節度もなければならない。

なかなかの難事業だ。

でも、これがある程度以上の水準で参加者全員ができていると、その後の会議がとてもスムーズに進むのである。

裏を返せば、このような「下ごしらえ」を事前にやらないから、多くの会議が意味を為さないものになってしまうのだ。

腹落ち感を得るために

僕は会議の意味は結論もそうだけれど、その過程での議論にもあるような気がしている。

というのは、「腹落ち」する為には、ただ完成されたものを提示されるだけでなく、その過程でどのような議論が交わされたのかが大事だと考えるからだ。

そして、その為には、自分の意見が吟味されたという実感がなければならない。

吟味される為には、それなりの質のモノを提示する必要がある。

その質を担保するのが文語リテラシーである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

自分の考えを整理する為にも文章化することは大事。

そのように僕は考えています。

もちろん、その文章化の過程において、失われるものはたくさんあります。

それは口頭で補えばいい。

そのような相互補完。

それを行うのが会議では?

会議は意見を出し合う(だけの)場ではありません。

そこからぐちゃちゃするのが会議の意味です。

事前に自分の考えをまとめ、提示できるだけの質を求めていきましょう。