屈辱を与えない

屈辱や恥という概念

部下を指導したり、叱ったりする際に、僕が心掛けているのは「屈辱を与えない」ということだ。

もちろんこれは僕側からの意見なので、「いやいや、あれは屈辱的でしたよ」と言われる可能性はあるのだが、そうならないようにいつも気を付けている。

これはパワハラとそうでないものを分ける線引きになると言えるかもしれない。

また、「恥」という概念とも結びついていると言えるかもしれない。

このことを念頭に置いているのといないのとでは、マネジメントにおけるリスクの度合いは大きく変わってくる。

関係性が薄い部下に対してどのように指導するべきか?

マネージャーは時に厳しいことを言わなければならない。

ヘラヘラニコニコしているだけではなかなか思うような成果を上げることはできない。

だから、時に叱責することだってある。

それが受け入れられるか、拒絶されるか、恨みを買うか、は何によって変わるのか?

基本的には、それは「誰に言われるか」ということに尽きるのだけれど、そこまでの関係性ができていない部下に指導する場合にはこの概念が重要になる。

部下との関係性ができている場合には、ある程度「強度がある指摘」であっても、それは受け入れられる場合が多い。

信頼関係があれば、厳しい言葉というのは時に金言にすらなる。

でも僕程度のマネージャーでは、部下全員と信頼関係を築くことはできない。

それぞれ濃淡がある。

中には僕のことを毛嫌いしているものもいる。

そういう関係性が薄い部下を叱らなければならない時に大事なのはこの「屈辱」という概念だと思う。

怒りの対象は「事象」であって、「人格」ではない

そういう部下に対してはこちらもあまり良い感情を持っていないので、時として叱責が度を越してしまう場合がある。

「日頃の恨み」が言葉に乗ってしまうことがある。

徳性があるマネージャーであればこんなことはないのだろうけれど、僕はどうしようもない人間なので、その場に乗じて鬱憤を晴らそうとしてしまうことがある。

その際にブレーキになるのがこの概念だ。

恥をかかさない、という方がわかりやすいかもしれない。

怒りの対象はあくまでも「事象」であって、「人格」ではない。

「事象」に対する叱責は許されるけれど、「人格」に対する叱責は恨みを買う。

その時は黙って受け入れているように見えても、部下の心の内では「恥をかかされた」という気持ちで溢れかえっている場合がある。

それは他のあらゆる場面で爆発するようになる。

そういった事態は避けなければならない。

できるだけ恥をかかせないようにする

よく言われる話だけれど、叱る場合は個室で1対1が望ましいというのもこういったことから来ているのだと思う。

叱られている自分を衆人に晒すのはとても恥だと感じる人が多い。

だからできるだけ目につかない場所で話すことが大事だ。

またテクニック的は話になるけれど、「褒めてから指摘する」というのも受け入れる体制を作らせるのには有効だ。

そして指摘する際にも「もったいない」という言葉を添えると尚良い。

「いつもとてもよくやってくれていると思う。でも、あの事象のあの部分だけはいただけない。そういう振る舞いは君にとって損になる。本当にもったいないと思う」

こんな感じだ。

こういうテクニカル的な作法はあまり好きではないのだけれど、マネージャーが身を守るためにも身に付けておいた方がいい。

適切な指導であっても、パワハラだと叫ぶ輩は一定数いるからだ。

「叱る」のが難しい時代

個人的には「叱る」という行為はこちらも物凄く消耗するので、あまりやりたくない。

というか、叱るだけ損だな、と思うこともしばしばある。

昨今の状況下では、そのままにしておく、馴れ合いにしておく、ほうがマネージャーのリスクは少ない。

そこで何かが生じたら、マネージャーの責任問題になるからだ。

そして僕の場合は部下の方が年上というケースも多かったので、必要以上の恨みというか妬みというか、そういうものを買う場面が多かった。

元来生意気であるという性質も関係しているのだろう。

でも、仕事上避けては通れない道だ。

そういう時に身に付けたのがこの「屈辱を与えない」という考え方だ。

適切な方法で不満を表明する

最終的には仕事上の関係にしか過ぎないので、その人が改善しようがしまいが、はっきりいってどうでもいいことだ、という割り切りが僕にはある。

それで結果を出せないのであれば、人事評価上でバッサリとやってしまえばよい、というような冷酷な一面が僕にはある。

でもだからと言って、普段からニコニコしていて、さもそんなことやりませんよ、という態度を取っておきながら、裏ではバッサリやる、というような卑怯なことは僕にはできない(そういうマネージャーは腐るほどいるけれど)。

なので、とりあえず不満は表明する。

それでどうするかはその部下の問題だ。

でもその不満の表明の仕方が度を越してはいけない

恨みつらみをその不満に載せてはいけない。

その線引きになるのが「屈辱感」「恥をかかさない」という概念だ。

マネージャーという仕事は常にリスクと隣り合わせだ。

丁度良いバランスを保つことはとても難しいけれど、それができなければパフォーマンスを上げることもできない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「叱る」という行為はとても消耗します。

「お前に叱る資格があるのかよ!」と自分にツッコミを入れながら、自分の不甲斐なさを棚に上げながら、僕は部下達を指導しています。

そこで気を付けているのはこの「屈辱」という概念です。

表現が難しいのですが、ある程度まで距離を詰めないと、踏み込んだことまで言わないと、「指導」というものは効力が薄れます。

でも、それは同時に返り血を浴びる行為でもあります。

「人間なんて(特に大人なんて)変われる訳ないよな」という諦念を抱きながら、「それでもやらないとな」という義務感で僕はこの修羅場に向き合っています。

日々あれで良かったのだろうかという後悔で眠れなくなりながら僕はこの仕事を続けています。

共感していただける人がいたら幸いです。