ポップとロックのマネジメント
職場もポップになった
先日ポップなミュージシャンのライブに行った。
観客の雰囲気と、サビの時のあの手の独特の動きが苦手で、普段はあまりポップなライブには行かないようにしているのだけれど、ちょっとした出来心で行ってみたところ、「やっぱり、馴染めねえな…」と感じたので、今日はそれをマネジメントに置き換えて話をしてみようと思っている。
時代はロックからポップになっている。
「Rock is dead!」なんてことを言わなくても、もう既にロックは死に絶えており、ポップなものを皆求めているように感じている。
それは職場においても同様である。
できるだけまろやかに、マイルドに、角が立たないように、発言や行動に気を付けながら日々僕は仕事をしている。
ハラスメントやポリティカルコレクトネス、その他諸々によって、かつて殺伐としていた職場はだいぶポップになった。
それはそれで良いことなのかもしれない。
でも、僕は未だにロックなもの(もしくはパンクなもの)への郷愁を捨てきれずにいる。
それはもう時代遅れなのだろうか?
今日はそんな話である。
ただ他者に関心を持たないようにしているだけでは?
新人育成。
社長から「新人を辞めさせないように、メンタル面にも配慮しながら指導してよ!」と言われ、「まあ言わんとしていることはわかるけれど、それでいいのかなあ」と思いながら、新人指導を行っている。
昭和の香りが残る時代に新人であった僕からすると、現代の職場はとてもマイルドになり、それはまあ全般的には良いことなのだろうなと思っている。
誰も怒らないし、叱らない。
当然ながら、怒号が飛び交うことなんてない。
でも、それはある種「他者に関心を持たない」「責任を負わない」ことを良しとする(良しとするというか、しぶしぶながら認める)、ことに繋がっているようにも思う。
踏み込まないこと
部下を育てるには、それなりの覚悟が必要で、ある種の「踏み込み」がなければ、その部下が変わることはないし、成長の速度や限界も規定されてしまう、僕はそのように考えている。
もちろん、それを望む部下と望まない部下がいて、それは個人の自由に任せたらいいとは思う。
ただ、その選択肢は与えるべきなのではないだろうか、とは思うのだ。
優しさと甘さ
いつも言うように、優しさと甘さは違う。
そして、現代の職場で行われているのは、大抵が甘さに基づく指導である。
それでいいならいいけれど。
僕はそのように思うのである。
スポイルされた量産型の部下ばかり
もちろん、昭和時代のハラスメント満載の部下指導が良いとは僕だって思わない。
フィジカル的にも、メンタル的にも追い詰めていくような、あの時代に戻りたいとは全く思わない。
ただ、人間の成長においては、何らかのイニシエーションみたいなものが必要で、それを通過せずに新人時代を終えてしまうことによって失われるものがある、ということには想いを馳せておく必要があるようには思う。
繰り返すが、その選択は自由である。
でも、前もってそれを排除するというか、先回りして失くしてしまう、というのはどうなのだろうかと僕は思っている。
スポイルされたたくさんの若手たち。
量産型で、何の個性もない、凡庸な中堅たち。
僕がおじさんになっただけかもしれないけれど、チームにいるメンバーたちに対して、そんなことを思うことが増えているのも事実なのだ。
行儀はいい。でも、それだけ。
ライブ会場でのワンドリンク。
誰もアルコールを選ばず、ノンアルコールの飲み物を選ぶあの雰囲気。
「アルコールはヘルシーじゃない」
確かに。
決められたかのようなコール&レスポンス。
盆踊りのようなハンズアップ。
確かにお行儀は良い。
でも、絶対に盛り上がってなんてないだろう?
それっぽく装っているだけだろう?
楽しげな雰囲気。
それを拡散する為だけの行為。
タガを外せよ。
枠を取っ払えよ。
僕が思うのはそんなことである。
枠から出ないのに、何者かになれる訳ねえだろ?
自分の限界の規定。
「あるべき自己」の枠内で収まること。
はみ出さず、輪を乱さないこと。
そう言えば、いつからか「個性の尊重」なんてことを言わなくなったな。
職場にいるお行儀のよい若手たち。
でも、彼(彼女)らが求める「何者かになりたい」という思考。
そんなに甘くねえよ。
というか、限られた枠内から出なければ、エクスパティーズなんて身に付かねえよ。
批判されないことは、必ずしも良いことではない
尖ることは批判を生む。
また、欠損を生む。
全方位に専門性を付与するというのは不可能だから。
それは「リスクを取る」ということでもある。
誰にも批判されないことは、必ずしも良いことではないはずだ。
ロックであること。
もっと言えば、パンクであること。
誰かに嫌われてもいいから、好きなものを求めたいと思うこと。
嫌いな人に嫌われることを、むしろ誉とすらすること。
それが専門性というものなのではないだろうか?
代替不可能性を求める代替可能なヤツばかり
代替可能性が嫌なら、代替不可能な者になりたいなら、そのポップな部屋から出ないといけないのでは?
もちろん、コアなファンに受けるだけでなく、ある程度の大衆性は必要なのかもしれない。
でも、少なくともそこには何らかの核みたいなものがなくてはならないはずだ。
それを見つける為の手伝いをするのが、マネジメントなのでは?
ああまたしても馴染めねえぜ
モッシュもダイブもない、健全なライブハウス。
僕はその中で一人手を突き上げている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
年甲斐もなく若い人に流行っているポップなミュージシャン(と言っても、僕はそこにロック性を感じているのですが…)のライブに行くことがあります。
そしてその度に、「2回目は行かなくていいな」と思うことになります。
それはそのミュージシャンが嫌になった訳ではなく、そこにいるオーディエンスとの温度差を感じるからです。
もちろん、僕がおじさんになったから、というのがその馴染めなさの理由の大半なのでしょうけれど、それだけではないような気もしています。
多くの人は、大衆性(ポップ)をそのままのものとして受け入れます。
その奥にある毒(ロック)のようなものを感じずに。
それは会社においても同様であるような気がしています。
時代遅れのロックなマネジメント。
そうやって僕のようなやり方は死に絶えていくのでしょう。
共感はできないかもしれませんが、引き続き読んで頂けたら幸いです。