形式だけを満たせばOK?
形式要件に走る時代
マネージャーに成り立ての9年前と現在で変わってきたなと感じるのが、形式要件に対する態度についてである。
言葉で表現するのは難しいけれど、「とりあえず形式だけ満たせばいいでしょ!」と考える人(というかそもそも考えてすらいないけれど、結果的にそのように行動する人)が増加したように僕は感じている。
それが本質的かどうかよりも、形式要件を満たしているかを重視する風潮。
書きぶりからもわかるように、僕はこれに食傷気味である。
僕はむしろ「形式がどうであれ、本質的なことを満たしていればいいんじゃない?」と考えるタイプで、でもそう考える人はほぼ絶滅危惧種みたいなもののようで、相変わらず職場でも浮きまくっているのが昨今の状況である。
これは「評価者の劣化」と「評価の透明性」が関係している(と僕は考えている)。
KPIのように、何でもかんでも可視化することが良い、比較可能であることが望ましい、という考え方が普遍的になったと同時に、評価する人がその表面的な数値のみをもって評価することが当然となった時代。
そりゃみんな形式要件に走るわな。
今日はそんな愚痴めいた話である。
仕事の意味や背景を考える(考えさせる)人がいなくなった
「その仕事にどんな意味や背景があるのか、考えてみなさい」
僕が若手だった頃には、一定数このような話をする上司や先輩がいたものである。
でも、そのような人は殆どいなくなってしまった。
皆そんなこと考えもせず、ただ仕事を仕事としてこなすことが殆どである。
本質的な意味なんて考えていたら効率が落ちるから。
それよりも素早く次の仕事に行った方がコスパが高いから。
可視化できる数値をいかに良く見せるかという競争
結局のところ、人事評価というのは、可視化される数値を如何に良く見せるかの競争になってしまったように僕は思っている。
もちろん、可視化され、透明性を高めることは重要であると僕だって思う。
でも、あまりにも数値至上主義(KPI至上主義)が幅を利かせすぎているのではないか?
そのように思ってしまうのだ。
拘り=自己満足?
確かに物事に拘るというのは、「何の意味があるの?」と問われれば、無意味なことなのかもしれない。
仕事の精度が高いことは望ましいことだとは思うものの、合格水準さえ満たしていれば、それよりも高い得点を取ることに意味などない、そのような考え方もまあわからなくもない。
「所詮自己満足では?」
確かに。
でも、頭では理解しているものの、どうにも体が言うことをきかないのである。
何だか気持ちが悪い。
それが僕が最近働いている時の実感である。
如何に見栄えを良くするか?
「高い得点を出すことは無駄な労力であり、合格ラインぎりぎりの点数で通過することが最もコストパフォーマンスが良い」と考える風潮。
そして、そのような「飾られた数値」を鵜呑みにし、適切に評価することができない評価者たち。
またそれを見透かす動き(評価者が適切に評価できないことを被評価者が見透かす動き)と、その更なるエスカレーション。
こうやって仕事はどんどんと形式的になっていく。
「説明できる=代えが利く」ということでは?
確かに「質的な評価」というのは「量的な評価」に比べて格段に難しい。
そして、その難しさを克服する為に、「量的なものを質的なものに転化させて評価しよう」という試み(例えばKPIのようなもの)についてもよくわかる。
また、「説明可能性」というか、第三者から問われた時にエビデンスをもって説明できるような状態が好ましい(むしろそうでなくてはならない)という考え方がこれに拍車をかける。
ただ、僕がここで思うのは、「説明可能であることは代替可能である」ということである。
もっと言えば、「説明不可能なものが才能(タレント)なのではないか?」ということである。
表現から零れ落ちるものを表現しようとするところに意味があるのでは?
天才たちの所業を、僕たちは何とか言語化しようと力を尽くす。
でも、ある種の言葉に転化した瞬間、その事象はスルスルと手の平から零れ落ちていく。
そうじゃないんだよな、と思って、また別の言葉に換えたとしても、それはそれで伝えたい意味を具備していない。
そのようなもどかしさの繰り返し。
そこにこそ評価する意味があるのではないだろうか?
描写しやすいことに長けた部下ばかり
僕は最近部下を評価する際に、「わかりやすく描写できること」に長けた部下が増えてきた、そしてそれはあまり面白いものではない、ということを感じている。
確かに「形容しがたい能力」を持った部下を評価するよりはとても簡単だし、誰に対しても疎明できるような書き方ができるから、負担感は少ないことは事実である。
でも、これだけ専門性であるとか、強みであるとか、そのようなことに基づいて人事評価を行いなさいという風潮の中で、多くの部下は形式要件に拘り、没個性化していっている。
「そこで目立てば圧倒的に優位なのでは?」と僕は思うのだけれど、皆同じような基準を満たすことに拘泥している。
僕にはそれがよくわからない。
そうしてしまったのは我々のせいではあるのだけれど…
いつの頃からか、「自分らしさ」みたいなことが言われなくなったように僕は感じている。
それは若手たちが大人になったと言えば聞こえはいいけれど、単純に醒めてしまっただけ、そのように思うことも多い。
そしてそのような環境を作ってしまったのは、僕たち大人の責任なのだ、きっと。
何だか嫌な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
わかりやすさ。
そのようなものが普遍的になった結果、物事はつまらなく、人々はのっぺりとし出した。
僕はそんな風に思っています。
専門性やら、強みやら、尖りというものは、代えが効かないからこそ面白い訳で、そして若者たちはそのような「何者か」になりたいと言っているものの、それと正反対の行動を取っているように僕には映ります。
成績も行儀も良い若手たち。
でも全然魅力的じゃないぜ。
そんなことを思いながら僕は働いています。
何だか意味がわからないかもしれませんが、引き続き読んで頂けたら幸いです。