マネジメント以前の問題がマネジメントを阻害している

UnsplashFredrik Öhlanderが撮影した写真

日本社会を覆う閉塞感

マネジメントの経験が長くなって、マネジメントによってどうにかできることと、どうにもならないことがだんだんとわかるようになってきた。

そして、どうにもならないことの影響度がかなり大きいことも。

それは当社だけでなく、日本社会全体を覆っている停滞感(閉塞感)のようなものであると僕は考えている。

全体のパイが縮小していく場合、人々がモチベーション高く働くことは難しくなる。

ポストは縮減され、給与は良くて横ばい止まりで、将来の展望についてもたかが知れている。

そんな状況の中で、誰が前向きに働こうとするだろうか?

人事制度改革や組織開発、その他諸々によって、会社は何とか社員のモチベーションを維持しようと奮闘しているようには見える。

でも、それは人口減少という大きな力の前には無力であるようにも思える。

さて。

そんな(外部)環境の中、マネジメントにできることって何なのだろうか?

今日はそんなことを書いてみようと思っている。

それでは始めていこう。

働くことは本来楽しいはずだ

仕事には本来的に、快の感情が内在していると僕は考えている。

働くことは(まあ大変なことはたくさんあるけれど)それなりに楽しさを伴うものであるはずだ。

やりがいや生きがいとまではいかなくても、何らかの効力感というか、貢献感というか、そういったものが仕事には含まれている。

FIRE後も暇すぎて働く人がいるように、「働くこと」それ自体はトータルではプラスの感情をもたらすものと僕は捉えている。

ただ、それを完全に打ち消してしまうような事態が頻発するのが現代という時代である。

真面目に働くことの馬鹿らしさ

ここで言う「事態」というのは、本当に多種多様だ。

日々、ボディーブローのように、我々のモチベーションを奪っていく。

そうして、段々と真面目に働くことが馬鹿らしくなっていく。

モチベーションを奪う、僕らにはどうしようもできない項目たち

もしかしたら、日本的雇用慣行がここには関係しているのかもしれない。

働いても働かなくても給与が同じ(もしくは大して変わらない)場合、誰が前向きに働こうとするだろうか?

もっと言えば、成果ではなく、「一生懸命頑張っているな」のような印象論や、出自や出身大学、その種のようなもので将来が決まるとするなら、そこにマイナスの感情が生まれてしまうことは、ある種仕方ないことであるようにも思えてくる。

そして、ある程度年齢を重ねてくると、そのような現実が身に染みてわかってくるようになる。

若い頃には覆い隠されていた「見えない格差」「身分制」のようなものが露になり、でもその時には自分もある程度歳を取ってしまっていて(家族なんかも出来ていたりして)、身動きが取れなくなっている。

でも、どう頑張ったとしても、上昇の見込みはなさそう。

ましてや、部署自体の売上も下がり、人員削減も始まっているとするなら、閉塞感以外の何物でもない。

そんな状況の中で、部下をモチベートする?

無理じゃね?

それが僕がマネジメントという仕事をやっていて時折思うことである。

日本社会における構造的問題点

「大きな問題を個人の努力によって克服しようとすること」

それが日本社会における構造であると僕は捉えている。

それは順回転している時には良い仕組みであると言えなくもない。

ボトムアップや現場の知恵、そのような言葉によって、組織の活力やイノベーションというものが維持されるから。

でも、逆回転を始めた場合には、悪い部分が目立つようになる。

部分最適ばかりに気を取られ、「そもそものところ」を変えることに誰も着手しようとせず、革新的な(でもリスクの高い)施策よりも、安牌な改善ばかりを行うようになるから。

低リスク・低リターン。

そりゃ誰もが無力感に苛まれるよな。

何をやっても無駄。確かに。でも、何もやらなくていいの?

そんな環境の中で、マネジメントにできることとは何なのだろうか?

正直、僕はそれを見つけられないでいる。

何とか抗おうと日々働いてはいるけれど、迫りくる大きな波の前では、そのような小さな努力など殆ど意味を持たない。

部下たちが「どうせ…」と思ってしまうことを覆すほどのインパクトをもたらすことはできない、それが実際のところである。

真面目に考えると、というか、真剣に物事を捉えると、モチベーションを高く保っているのは滑稽にすら思われる現代において、出来ることなどない、それは事実だろう。

でも、同時に、そのままでいいのだろうか、とも僕は思っている。

そういう意味もあって、僕はこのブログを立ち上げたし、今でも誰が読んでいるのかもわからないこのブログを続けているのだ。

無意味な行為だとしても

「個人の努力は全体の大きな力の中では無意味」

それは事実だろう。

でも、個人の集積が全体であることもまた事実なのだ。

だから、僕はこの無意味な行為を続ける。

日々の仕事の中でもそうだし、このブログの中でもそうだ。

ふと我に返ると馬鹿らしく思えるそんなことを、いやいやそこで旗を降ろしたら何にもならないんだよな、と自分を騙すことで、僕は日々を何とかやり過ごしている。

少しでも何かが好転することを願って。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

個人の累積が全体。

でも、そのような繋がりを僕たちは忘れがち。

そんなことを思います。

日本社会は縮減していく。

それは人口動態を考えた場合、やむを得ないことです。

ただ、そこで項垂れているだけでいいの?

被害者意識ヅラして、何もしないままでいいの?

一方で、そんなことも考えてしまいます。

僕はできることをできる範囲でやってみようと思っています。

皆様もぜひそれぞれの持ち場でできることをやってみてください。

そうしたら、もしかしたら何かが変わるかもしれません。

というか、実際に変わるかどうかは別として、変わるのではないか、変えようという志向性の中に生きる意味は生まれます。

個々のゲリラ戦を。

引き続き読んで頂けたら幸いです。