言うべきことを言わないでヘラヘラしているのは違うぜ?

UnsplashLena Bauermeisterが撮影した写真

耳の痛いことを言う人を煙たがる風潮

ハラスメントに対する目が厳しくなる環境下、上司は部下に(部下が上司にではなく)モノを言えなくなっている。

何かと言えばハラスメントと捉えられる可能性があるので、上司は部下と日常的なコミュニケーションを取ることさえ難儀にしている。

それが現代という時代である。

でも、それで良いのだろうか? と思う時が僕にはある。

もちろん、ハラスメントは絶対にダメだ。

ただ、何でもかんでも「自分が不快な気持ちになる=ハラスメント」だと捉えられるとするなら、耳の痛いこと(でも正当なこと)はハラスメントと矮小化され、皆やるべきことすらやらず、職場の規律は低下(もしくは崩壊)することになる。

このような「耳の痛いことを言う人」を煙たがる風潮が僕にはよくわからない。

確かに、誰だって(もちろん僕だって)心地よく仕事をしたいと思っている。

でも、それはあくまでもやるべきことをやった上での話なのではないか?

それをやらず、部下を野放しにしておいて、ヘラヘラしているのは、マネージャーとしては失格なのではないか?

今日はそんな話をしていこうと思っている。

職場環境は好転した。確かに。

職場のモラールの低下。

そんなことを思う時がある。

これは冒頭に書いたように、ハラスメントというものが職場に蔓延(というか常態化)し、それに対する取り締まりが厳しくなったことによる副産物なのではないか、と僕は考えている。

繰り返しになるが、昭和時代のようなハラスメントが減少したことはとても喜ばしいことだ。

もちろんまだそのような行為は残存しているけれど、あからさまなハラスメント行為は以前に比べるとだいぶ少なくなり、それによって職場環境は大きく好転することになった。

ただ、それと同時に、本来言うべきことも職場から消えてしまったのではないか、ということを僕は思う。

特に、耳の痛いこと、その人にとって必要な箴言みたいなものまでなくなってしまったように感じている。

これは「成長」という観点で捉えた時に、本当に良いことなのだろうか?

僕には甚だ疑問である。

コーチはやっぱり必要だよね?

例えるなら、スポーツ選手が自己流で練習を繰り返していく(それも幼少年代から何の指摘を受けることなく)、そういうイメージである。

もちろん、天賦の才と言われるようなレベルの選手であれば、余計な指導というのは不必要で、自由に伸び伸びとその才能を伸ばすべきだとは思う(いや、それでも適切なタイミングで適切なアドバイスは必要だと思うが…)。

でも、そうではない場合、圧倒的大多数の人間にとっては、(その指摘が的を射ているかは別として)それなりに耳の痛いことを言われる必要があると思っている。

ナニクソと反発したり、確かにと納得したり、そのような繰り返しによって、人は自分の殻を破り、成長の度合いを高めていく。

それはきっと社会人であったとしても、当てはまるのではないだろうか?(程度はだいぶ小さくはなるだろうけれど)

(僕も含め)皆で停滞(低下)している現状でOK?

多くの人が過剰にハラスメントを恐れ、基本的なコミュニケーションですら忌避する中、部下の(特に若手の)成長速度は大きく減少している、と僕は考えている。

もちろん、正直なことを言えば、それはそれで別に僕には関係ないことではある。

もっと言えば、そのような状態にしてしまった責任は彼(彼女)ら自身にもある。

そして、そのような相互作用によって、職場全体のモラールが低下し、パフォーマンスも低下していく。

でも、それを誰もどうにもすることができず、傍観している。

「それでいいの?」

僕はそう思うのである。

リスクだけ大きいのが部下指導

確かに、厳しいことを言いながらも、部下と良好な関係性を構築する、というのは難易度がとても高い。

優しいことだけ言って、何となくの関係性を築いておいた方が安牌、その気持ちはとても良くわかる。

また、嫌らしいことを言うなら、部下指導というのはリスクリターンが非常に悪く、ハラスメントのリスクだけを過剰に抱え、割に合わない、そのように僕だって思わなくもない。

ただ、である。

(繰り返しになるが)本当にそれでいいのだろうか?

オレはまだ諦めてねえぞ

僕はこのブログを始めるにあたり、パワハラ系マネージャーとヘラヘラ系マネージャーではない第三の道を模索したいということを宣言したように思う(お恥ずかしい話だ)。

そして、その気持ちは現在も変わっていない。

「日本社会の停滞はマネジメント不全が1つの大きな要因であり、その為には我々マネージャーが適切なマネジメントを行う必要がある」

大風呂敷を広げるようで恐縮であるが、僕はそのような考えの下、少しでもその環境が良くなることを願って、このような誰が読むかもわからないブログを書き続けている。

それはもしかしたら、日本のどこかに僕と同じような想いを持って働いている人がいて、その人がもし孤独に苛まれているとするなら、「オレもここにいるぜ!」ということを伝えたいからである。

言うべきことを言おう。

それで嫌われたっていいじゃない?

それが僕が思うことである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

無関心の蔓延。

それなら別に僕も構いません。

というか、元から他者に関心がないのが僕という人間であるから。

でも、それが仕事にも影響してくるとするなら、それはちょっと違うのではないか、と思ってしまいます。

状況の放置。

ツケは回るぜ?

いつかは利息が付いて支払わなければならなくなるぜ?

まあそこまで逃げ切れると考えている人間ばかりだから関係ないのか。

ただ、オレは、それは嫌なんだよな。

僕は今日も嫌われることを言って、嫌われていこうと思っています。

共に嫌われてくれる人がいたら幸いです。