自分の目で見て考えよう
古くて新しい「正しさとは何か?」という問い
マネジメントには第六感が重要だ。
と、いつものように訳の分からない言葉から文章を始めてみる。
というのも、最近「正しさ」についてよく考えているからだ。
古くて新しい「正しさとは何か?」という問い。
それを昨年はたくさん考えさせられた。
そして、それは今もなお続いている。
正しさなんてものは簡単に覆る。
もちろん、それにイチイチ驚くほど、僕はピュアではない。
そんなにウブでもない。
でも、何というか、グッタリはする。
ウンザリもする。
そんな中で、僕が思うのは、結局のところ信じられるのは自分の嗅覚だけなのではないか、ということである。
これは世界を極小化してしまうリスクはある。
でも、極大化するよりはマシなのではないか、と最近は考えている。
そして、それはきっとマネジメントにも適用可能だ。
意味がわからないと思うけれど、今日はそんなことを書いてみようと思っている。
それでは始めていこう。
人の心を読むのは疲れる
僕は「人の心が読める」と言われることがある。
自覚はあまりない。
というか、できるだけそのような感覚を封じるように日々生きようとしている。
というのも、人の心を読むと非常に疲れるからである。
いや、この表現は的確ではない。
別に読もうと能動的に試みている訳ではないのだ。
勝手に(受動的に)入り込んでくる、そんな感じなのだ。
それを浴び続けると、本当に疲れてしまう。
だから、できるだけそれを感じないよう、日々センサーを鈍麻させるよう、生きている。
それでも、色々な物事が入ってくる。
そして、それは悪いことばかりでもないのではないか、というのが今日の話に繋がってくる。
評価において評判や噂をシャットアウトするのは不可能
マネージャーという仕事は、たくさんの人と関わる仕事である。
また、そこには評価ということも関係してくる。
色々な人の評価をする局面があるのがマネージャーという仕事である。
そして、その評価というのは、必ずしも自分の目で見たものだけではなく、評判や噂、そのようなものが入り混じった状態で下さなければならないものだとも思っている。
もちろん、その内容については十分に吟味すべきだ。
でも、完全にそのような情報を遮断して、自分の目で見たもの、耳で聞いたものだけで評価を下すというのは現実的ではないとも思っている。
自分の評価と他者の評価のズレ
ここで「人を見る目」に話を転じてみる。
あなたは自分の「人を見る目」に自信がありますか?
僕はあまりない。
だから、時折、自分の感覚が間違っているのかな、と思うことがある。
自分の目で見えるものと、他者からの評価が乖離している時、僕は自分の評価に自信が持てない。
というのも、僕は自分のことを「普通ではない」と思っているから。
世間からズレていると思っているから。
なので、「一定の補正」が必要なのではないか、といつも自分に問いかけている。
「お前は頭がおかしいのだから、まともな人たちが言うように、お前の評価を補正すべきだ」
「確かに。そりゃそうだ」
これが僕の脳内で行われている会話である。
そして、その通り、実際に補正を試みたりもする。
でも、やっぱり何だかしっくりこない。
そんなことをやっていると(一定時間が経つと)、「まともな」人たちが言っていたことが覆り、僕が言っていたことがやっぱり正しかった、なんてことが起こる。
ただ、そこにあるのは「それ見たことか!」というようなドヤりではない。
何というか、消極的な感覚、合っていてすみません、みたいな感じなのだ。
そして、自分自身もなぜそれが合っていたのか、そのように感じたのか、ということが分かっていないことが殆どなのである。
それが冒頭に書いた「第六感」という意味である。
よくわからない違和感の重要性
何となくの気持ち悪さ、感覚のズレ、しっくりこない感じ、そのようなものの集積。
表面上の綺麗さと、自分が受け取る情報との乖離。
曰く形容しがたいモノ。
それを信じること。
それが重要なのではないか、と最近は考えている。
独善的になってはいけないけれど…
たくさんの情報。
メディアを含めた、たくさんのご意見番たち。
その情報の渦の中で、僕はもうちょっと自分の感覚を信じてみてもいいのかもしれないと思い始めている。
もちろん、冒頭にも書いたように、あまりにもそれが行き過ぎると、自分しか信じられないというか、世界が縮減してしまうリスクはある。
でも、拡張し過ぎるよりはまだマシなのかなと僕は考えている。
対面の重要性
薄いたくさんの情報。
濃い自分の目で見た情報。
マイクロな世界で生きることが素晴らしいとは僕は思わないけれど、face-to-faceの大切さみたいなものを僕はいま感じている。
生成AI。
たくさんのフェイク。
その中で「正しさ」って何だ?
会って話す以外に確かめる方法ってあるのか?
生成AIと真贋
原始的な方法。
嗅覚のような動物的感覚を信じること。
僕が今まで書いたものがディープラーニングされて、ウエノAIが誕生したら、僕はこのブログをそのウエノAIに任せるのか?
それを読者は僕だと思うのか?
ネット上では見分けがつかない。
そうだぜ?
これだって生成AIを使って書いたのかもしれないのだから。
視覚や聴覚はまだきっと有用
目というセンサー。
耳というセンサー。
まだそれらはきっと有用であるはずだ。
予想通り意味がわからない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
第六感というと、スピリチュアルなニオイがしますが、でも動物だし、そういう違和感みたいなものも大事にしなければいけないよね、というのが今回の話です。
また、視覚情報だけでなく、嗅覚情報(これは具体的なニオイだけでなく、雰囲気も含めたもの)がまだ人間がAIよりも優れている領域なのではないか、と僕は考えています。
WEB上の情報では、残念ながら嗅覚は(まだ)伝わりません。
ニオイを嗅ぎ取っていきましょう。