日本はきっと病んでいるんだろうな

UnsplashTowfiqu barbhuiyaが撮影した写真

調和と閉塞感

先日、外国人の知人と話をしていたら、「日本という国はとてもいい国だけれど、何だかそこにいる人達は疲れているように感じるんだよね」という話題になった。

「みな親切だし、優しいし、敬意を持って接してくれる感じがあるんだけど、裏側ではそれが重荷になっているのかもしれないなと時々思う時がある」

そして、「もう少し気楽にやってもいいんじゃないかな?」というように話は進んでいった。

僕も彼と同意見である。

日本はとてもいい国だ。

また、そこにいる人たちも尊敬に値する。

調和を重んじる国民性。

他人への配慮。

それは外国にはない僕たちの誇るべき文化であるし、これからも大事にしていくべきものだと思う。

でも、それが時に息苦しさに繋がっているように思える時がある。

たくさんの不機嫌な顔。

陰湿なSNS。

もちろん、外国だってそのようなことはたくさんあるだろうし、日本だけが特別ということではないだろう。

ただ、何となく病的な感じが僕にはする(僕が日本人だからそれを敏感に感じ取れるだけなのかもしれない)。

そして、その原因の1つとして、僕は「緩い共同体の崩壊」があるのではないか、と考えている。

今日はそんな話である。

よくわからないかもしれないけれど、取り敢えず始めていこう。

子どもたちの自殺者数が過去最多だってさ

たくさんの自殺者。

それも子供や学生の自殺者。

ニュースによると、昨年の小中高生の自殺者が過去最多となったようだ。

これを聞いて暗澹たる気持ちになる。

それは僕らの社会の写し鏡であると思うからだ。

自殺の原因はたくさんあって、もちろんそれぞれ事情は異なるだろう。

でも、僕が感じるのは、そこにある未来への希望のなさについてである。

そして、「現在への強い縛り」というか。

現在と未来

周囲の環境。

特に子供や学生はそれを選択することができないから、余計に苦しいことになる。

それが「親ガチャ」「学校ガチャ」のような話にも繋がるのだろう。

自分のことを振り返ってみても、それはよくわかる。

僕は自分で金を稼げるようになるまで、自分で自分の環境を選択できるようになるまで、本当に毎日が辛く、ぼんやりとではあるものの死ぬことばかり考えていた。

教師や友人などの周囲の人間も好きでなかったし、家族関係も良好とは言えなかった。

また、そこに馴染めない自分への嫌悪感も過剰なくらいあった。

それに未来への展望のなさが加わる。

勉強して、良い学校に行き、良い会社に入ったとして、その先に何があるのか?

そんな正に中二病全開のような状態が僕の日常であった。

だからこそ、子供たちの自殺のニュースには暗い気持ちになるのだ。

僕たちの大人のせい

僕たちの社会は病んでいる。

それが彼(彼女)らに多大な悪影響を及ぼしている。

僕らはそれにもう少し自覚的であるべきだし、それを打開すべくもう少し努力をすべきである。

僕はそのように考えている。

「見えてしまう」ことの怖さ

僕はSNSネイティブの世代ではないから、現代に生きる子供たちの閉塞感がいかようなものなのか、体感的にはよくわからない。

でも、想像するに、僕たちの子ども時代以上に「未来がわかってしまう」のだろうとは思う。

もちろん、そのわかってしまうという感覚は、本当は間違っている(わかってはいない)のだけれど、彼(彼女)らにはそんなことはわからず、「こんなものか」と絶望し、自死を選ぶのだろう。

現在からも逃げられず、未来もパッとしないなら、なぜ生き続ける意味があるのか?

ナニモノにもなれそうもない自分。

そして、実際にナニモノになれていないたくさんの大人たち。

暗く、不機嫌そうな僕ら。

それを少しでも良化する為には?

共同体の再興ではないモノを

僕は日本が現在のようになっているのは、「緩い共同体の崩壊」が原因なのではないかと考えている。

でも「緩い共同体を作る(再興する)」ことがその打開策ではないとも考えている。

どういう意味か?

かつては、「緩い繋がり」が社会に存在した。

それが(メンタル等における)一種の防波堤となっていた。

親がダメでも、学校がダメでも、「近所」のような緩い共同体があることで、完全な孤独ではないという実感を持つことができていた。

ただ、それはもう再起不能だ。

そして、再起すべきでもない。

共同体というものは、仮にそれが緩かったとしても、日本の場合、閉塞感をどうしたって伴ってしまうと思うからだ。

そこには必ず相互監視の目がある。

それがたとえ善意に基づいていたとしても。

だから、僕が思う打開策の1つとして、「メッセージを発する」ということを提案しようと思っている。

いや、それは「打開策」と言えるような大層なものではない。

1つの試案のようなものに過ぎない。

そして、それは別に受け取られなくてもいい。

ただ、同じような過去を持つ大人がいて、アップダウンはありながらも、それなりに幸福に暮らしているというメッセージはこの国にはもう少し必要であるようには思うのだ。

SNS上にあるような、飾り立てられたものじゃない、等身大のメッセージ。

冒頭の彼が言うように、「気楽に」生きることはできないかもしれないけれど、大人も悪いものじゃないよ、というようなメッセージ。

無責任なことは言えないけれど…

少なくとも、僕は社会人になってから、人生というものが少しだけ楽しくなった。

というか、自分に対して自信を持つことができるようになった。

周囲の人間と馴染めないのは変わらないし、嫌なことがたくさんあることも変わらない。

でも、そこにいる自分は、そのようなものと折り合いをつけながら何とか生きていくことができている。

僕にとって、それはとても大事なことである。

簡単に「生きていた方がいいよ」とは言えないけれど、「自殺するのはもう少し先延ばしにしてもいいんじゃないの?」、とは自分の経験を踏まえても、僕は言いたいと思う。

誰宛でもないけれど、モールス信号のように、僕はそれを発し続けようと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

カネと自由。

僕は自分でカネを稼げるようになってから、人生が少しだけ明るくなりました。

カネはカネでしかありませんが、嫌なことから逃げる為には有用です。

そして、僕が子供たちに思うのは、逃げることは悪いことではないし、むしろ積極的にやっていいんじゃない? ということです。

もちろん、彼(彼女)らにはカネがなく、だからこそ逃げられない、というのもよくわかります。

でも、だからこそ、その手段を得る為の方策を立てておいた方がいいのではないかとも思います。

それは勉強でもスポーツでも芸術でも何でも構いません。

Youtubeだって、Instagramだって、何でもいい。

クソみたいな教師や、頭の固い親や、つまらないことしか言わない同級生の話なんて聞かなくていい。

たくさんのカネじゃなくても、選択ができるくらいのカネがあれば、苦しさを減じることは可能です。

何とか生き延びていきましょう。