低酸素な職場

息苦しいことが当たり前になった
職場の酸素濃度が低い。
何だか息苦しい。
そんなことを感じてはいないだろうか?
僕は感じている。
別に呼吸ができない訳ではないし、とても辛いとまでは行かないのだけれど、じわじわとダメージが蓄積してくるようなあの感じ。
それがいつの頃からか当たり前のようになったように思う。
でも、皆平気そうな顔をして働いている。
ロボットのように。
酸素を奪う要因は、何か1つの特定のものではない。
色々なことが重なり合って、それも1度に進むものでもなくて、気が付けばそうなっていた、というような状態。
誰かが積極的に加担している訳ではないのだけれど、誰もが消極的な対応をしているが為に起きてしまうあの空気感。
それを打開するための方法とは?
今日はそんなことを書いていこうと思っている。
それでは始めていこう。
酸素濃度測定器
パルスオキシメーター。
コロナの時に大きく取り上げられたあの機械を使ったら、もしかしたら職場の酸素濃度も測ることができるのかもしれない。
そんなことを思う。
そして、それが危険水域に達しているであろうことも。
モラルハザードの原因
僕たちは普段働いていても、それが本当に危機的状況なのかどうかは案外わからないものである。
でも、確実に重症化への道を辿っている。
職場におけるモラルハザード。
またそこまで行かないまでも、冷めた空気感。
その原因は職場の酸素濃度の低下にある。
酸素を出す動きと吸い取る動き
これは「酸素を出す動き」が減り、「酸素を吸い取る動き」が増えたことに起因する。
酸素を出す動きというのは、簡単に言えば人々に活力を与えるような事柄を指す(ことにする)。
例えば、褒めるとか、称えるとか、認めるとか。
感謝するとか、労うとか、報いるとか。
反対に、酸素を吸い取る動きというのは、人々から活力を奪うような事柄のことである。
例えば、貶すとか、非難するとか、否定するとか。
恩を仇で返すとか、正直者が馬鹿を見るとか、やってもやらなくても同じとか。
後者が増えたことによって、職場の酸素濃度は大きく低下している。
不作為の連鎖
それも別に悪意があってやっている訳ではないのだ。
花が萎れるように、草木が枯れるように、吸う空気の中に酸素が不足しているから、段々とそのような行動を取ってしまうようになっているだけ。
個々人が悪人という訳ではなく、無意識に加担してしまっているだけ。
でも、その結果、職場は今のような状態になってしまった。
不作為の連鎖による職場の劣化。
誰もが息苦しさを感じているものの、「絶対的な悪」が存在せず、生命力がじわじわと削られてくるようなあの感じ。
それをどうやったら変えることができるのだろうか?
酸素を増やし、二酸化炭素を減らす
ここまでの文脈から考えるなら、「酸素を出す動き」を増やし、「酸素を吸い取る動き」を減らす、それしかないと僕は考えている(何だか地球温暖化の議論みたいだ)。
先程書いた通り、人を貶したり、非難したりすることを減らし、褒めたり、称えたりすることを増やしていく。
それによって、劇的に改善する訳ではないだろう。
でも、きっと徐々に職場の酸素濃度は上がっていくはずだ。
そうすれば、きっともう少し楽に呼吸が出来るようになる。
仕事のソロプレイ化
いつの頃からか、仕事というものがチームプレイではなくソロプレイになってしまった、そんなことを思う。
それは成果の測定が個人単位になってしまったことが大きく関係しているのではないか、と僕は考えている。
曖昧性を排除する方向に社会が向かい、それも皆が良しと考えて動いていった結果、違う問題が生じてしまった、それが現在なのだと思う。
自己責任論と成果主義
「誰が頑張っているかを明確化し、そこに適切な対価を与えよう」
その考え方自体は何も間違っていない。
でも、それによって、個人は利己的になり、結果分断されてしまった。
それぞれがそれぞれの責任の名の下に(自己責任論)、各自で努力を続けていくこと。
それは別に悪いことではない。
また、以前のような日本的集団主義が良かったとも思えない。
たださ、というのが今日の議論である。
利己的になった結果、真の利己的ではなくなった
そして、これは利他的になれ、という所までは意図していない。
「自分が一番可愛い」というのは生物として至極真っ当なことでもある。
でもさ、とも僕は思っている。
そのような利己的な動きが極まった結果、職場からは酸素が失われ、それが巡り巡って自分にもダメージを与え始めている状況。
それは本当の意味で「利己的である」と言えるのだろうか?
選手として評価される為には、個人成績もそうだけれど、チーム成績も大事なのでは?
というか、チームが弱いのに、個人成績が良いということが起こり得るのだろうか?
僕には甚だ疑問である。
結果苦しむだけでは?
真に自分の利益を考えるなら、自分が所属する集団のパフォーマンスが向上している方が得であると僕は思う。
それによって、高いレベルの情報が回るようになり、ノウハウが蓄積するようになり、その恩恵を自分でも受けられるようになるから。
でも、そのように考える人は多くないようだ。
皆自分だけ。
酸素は自分だけのもの。
それって自分の首を絞めているだけでは?
酸素を出そう
酸素を出す動きを。
せめて吸い取らない動きを。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
その職場にいるとなぜか自分の能力が増幅されたようになるようなあの感覚。
それが失われて随分と時が経ってしまったように思います。
職場で共に働くことのメリットは「共有知」であると僕は考えているのですが、人々が利己的に行動し過ぎた結果、それが失われ、その恩恵も受けられなくなってしまったというゲーム理論(囚人のジレンマ)のような状況が今起きていると感じています。
「集団のパフォーマンスの向上は、自分の為にもなる」
そんな当たり前のことがどうしてわからないのでしょうか?
大事なことは職場に酸素を取り戻すことです。
自由に息が吸え、何なら深呼吸が出来ることです。
共に働く人々を称え、その恩恵に与っていきましょう。