ならぬものはならぬ

UnsplashSarah Kilianが撮影した写真

説明、説明、説明。

説明(責任)が面倒くさい時がある。

というか、そこまで説明しなければわからないのだろうかと思う時がある。

ダメなものはダメなのだ。

そこに説明は不要。

そうじゃないか?

現代という時代は、何かと説明を求められる時代だ。

いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どのように、どうした?

そのようなこと。

確かにそれらは大切なことだ。

できるだけわかり易く、ユーザーフレンドリーであろうとすることはどう考えても重要なことではある。

でも、時にはそのような説明を超えるものがあってもいいのではないか?

というか、わからないものはわからないものが(も)悪いという考え方が少し前まではあったような気さえしている。

今日はそんな話をしていこうと考えている。

それでは始めていこう。

正しい。あまりにも正しい。

アカウンタビリティ:自らの行動や結果に対して、関係者に説明する責任や義務のこと

それに抗う術はない。

どの角度から見ても、それは正しいからだ。

でも、「正し過ぎるのではないか?」と思う時がある。

理解させる側に責任がある?

これはマネジメントという仕事の様々な場面で感じることである。

戦略の展開、部下への指導、他部署とのコミュニケーション、その他諸々。

そこにあるのは「理解させる側に責任がある」という思想である。

もっと言えば、「理解する側は無垢(無知)であっていい」という考え方というか。

そこに時々違和感を覚えるのだ。

何でも説明可能と考えること自体が間違っている

子どもへの躾のように、「なぜなぜ期」に対して、全ての回答を(それも丁寧に)する必要があるのだろうか?

「ならぬものはならぬ」と一言言って、それで終わりではいけないのだろうか?

というか、そういう領域の物事がこの世に存在すると僕は考えていて、それは言葉で説明しようとしてもできるものではないとも思っている。

何でも説明可能だと考えること自体が間違っているのだ。

理を尽くすことは大事であるが…

もちろん、先述したように、理を尽くすことは大事である。

最大限理解して貰えるよう、努力をすることは確かに重要なことだ。

でも、それだけではないのではないか、というのが今日僕が言いたいことなのである。

消費者的態度の聞き手

ここにはまず受け手側の意識の問題がある。

いつの頃からか、「消費者的態度」で話を聞く者が増えてきたと僕は感じている。

消費者的態度というのは、選択権は自分にあり、そこに至るまでの説明は生産者が行うべきである、もしそれで自分が理解できないのであればその説明(者)が悪い、という態度のことを指す(ことにする)。

これは(特に若手の)部下の態度によく見られると言えば、理解が進むかもしれない。

「仕事ができないのは上司が教えていないのが原因である」とか「その仕事が自分にとって利益があるように説明し、やる気を出させる責任が上司にある」とか、そのような態度。

ここに僕は大きな違和感を覚える。

別にいいですけれど…

「それは私の仕事ではない」

「なぜそれを私がやらなければならないのか?」

そのような質問に対し、「別にやらなくてもいいんだけどな」と僕は思ってしまう。

「その代わり、仕事はなくなるけどね」とも。

選択権はないぜ?

残念ながら、仕事というものは与えられるもの(だけ)ではない。

ある程度、自分から能動的に行う必要があるものだ。

でも、このような考えを持たず、自分はあくまでも消費者であって、それをやるかどうかを決める選択権は自分にあると考えている者はとても多い。

もしかしたら自営業者であればそれは許されるのかもしれない。

しかしながら、我々のようなサラリーマンでは、それは不可能だと僕は思う。

そして、そこに説明を求められることに何だかもうウンザリとしてしまうのだ。

わからない者は置いていく

ダメなものはダメだし、やらなければならないものはやらなければならない。

それ以上の説明はないのだ。

もしそれで理解ができないのであれば、その人に(も)問題がある。

そのような考え方は冷た過ぎるのだろうか?

僕にはそれがよくわからない。

バランスがおかしくね?

もちろん、これは程度問題ではあるだろう。

ただ、現状は(僕からすれば)おかしな状態であるように思える。

そして、このような問答をしていること自体が生産性を下げる原因になっているのでは?

問答無用で給与を下げたり、クビにしたり、そういうことはダメだとしても、もう少しやり方はあるのではないか?

そんなことを考えてしまうのだ。

言えない大人達

いつの頃からか、ある物事に対してきっぱりとダメだと言う大人がいなくなってしまったように僕は感じる。

どこか気を遣っているというか、日和っているというか。

その気持ちはわからなくはない。

いつだって消費者は強いから。

でも、そちら側に意識が向きすぎた結果、社会は幼稚な方向に進んでしまったようにも思える。

隙を狙うというか、間を突くとか、そのような小ズルい者を利するようになったように思う。

オレは面倒くさいおじさんであり続けるよ

緩んでしまった規律のようなもの。

それを嘆くのはおじさんの所業なのであろうか?

僕にはよくわからない。

しかしながら、たとえそうであっても、僕は「ならぬものはならぬ」と言い続ける面倒くさいおじさんであり続けようと考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

説明なんていらないのでは?

そう思う時があります。

というか、それを説明しなければわからないなら、そいつに問題があるのでは?

こういう話は現代日本社会ではタブーなのでしょう。

でも、その結果がコレです。

それでいいならいいけれど。

迎合ばかりでは成熟を促すことはできません。

部下を育てるには突き放すことも大事です。

適切な壁となって立ちはだかっていきましょう。