「映え」だけの為の仕事はもうウンザリ

UnsplashAlexander Shatovが撮影した写真

本質よりも見てくれ

「映え」が良いこと。

それが現代のキーワードだ。

とここまで書いたところで、「いやいや、それって日本においては昔からそうだったんじゃね?」と思ったので、それを今回は文章化していこうと考えている。

というのも、そこには「本音と建前」「忖度」・「空気」のような、「ザ・日本的な要素」が含まれている気がするからである。

本質よりも見てくれを重要視すること。

そして、それにいい加減ウンザリしていること。

今日はそんな話だ。

それでは始めていこう。

アットホームな職場です

コロナが流行り出してから、というか、在宅勤務が一般的になってきてから、当社では社内SNSなるものが普及してきて、そこにはたくさんの職場から投稿された「素晴らしい我が社の様子」がアップされている。

就活生が見たら誰もが憧れるようなキラキラした職場の姿。

でも、これは「アットホームな職場です」「風通しのよい職場です」みたいな、ブラック企業求人広告によく出てくる文言を写真に置き換えただけに過ぎない。

0を10にするのは違うのでは?

もちろん、そこに異論を申し上げたい訳ではない。

SNSというのは、その性質からして、「そういうもの」であるから。

それは初めから割り引いて鑑賞するものであるから。

ただ、それがあまりにも行き過ぎると、実態がないのに、それがまるであるかのような演出が横行してしまう。

1を10にするのはまだいい(許容できる)。

でも、0を10にしてはいけない。

そう思うのである。

映えればOK!

そして、そのような状況が常態化すると、実態をどうにか改善しようとすることではなく、いかに「映えさせるか」に意識が向くようになってしまう。

「どうせわからないのだから、映えればいいんだよ」

そのような態度。

これはきっと当社だけではなく、日本中どこでも見られる現象であるように思う。

大きな言葉で言えば、モラルの低下。

形式主義。

そして、それは(冒頭にも書いたように)今に始まったことではないのだ、きっと。

開き直る人たちへの嫌悪感

僕はこのような「バレなければ何をやってもいい」みたいな考え方に嫌悪感を覚える。

でも、同時にそういう人がとても多いとも感じている。

表現が難しいけれど、そこに躊躇いや恥じらいがあるのであれば、僕は「盛る」ことに対して抵抗感を覚えることはあまりない。

ただ、開き直られてしまうと、「いやいや、それは違うんじゃない?」と思ってしまう。

副産物として映えるなら許せるけれど、主目的として映えさせるのは何だか違う。

上手く伝わらないかもしれないけれど、そのように感じてしまうのだ。

訳知り顔の人達

「映え」だけの為の仕事。

それが横行していることに僕はウンザリとしている。

でも、皆あまり違和感を覚えていないようにも感じている。

そこに多大な違和感を僕はまた覚える。

「いや、仕事ってそういうものでしょ? 何を青臭いことを言ってるの?」

そのような訳知り顔でいることが大人の作法であると考えるたくさんの人達。

それはそうなのかもしれない。

そういう所作が現代日本においては、一般的な振る舞いであることは僕も同意する。

ただ、それによって為された(引き起こされた)状態についての客観的な評価は行うべきだとも考えている。

客観的評価も同時にしようね

生産性の低下や、1人当たりGDPの低下。

失われた30年。

そのような言説の一翼を担っているのは、実は僕たちなのかもしれないと考えること。

政治(だけ)が悪いのではない。

僕らもきっと共犯者なのだ。

一気に盛り上がるけれど、急速に冷める民族

やったらやりっぱなし。

効果検証を行わない。

そういうのは「野暮」だと言われる。

それは日本人の特徴ですらあるのかもしれない。

急激に盛り上がり、実行するまでは一生懸命行うけれど、その行ったものがどうであったのか、成果はどうであったのか、というところには意識が向かわず、やったこと自体に満足する民族。

そして、それをできるだけ早期に忘れることが「粋」だと捉える民族。

それが僕たちの特徴だ。

でも、それってどうなのだろうか、と僕はずっと感じている。

アップされた瞬間に役目を終える仕事ばかり

世の中にはたくさんの「映えた」ものがある。

ただ、「その後」はどうなったのだろうか、と僕はいつも思う。

アップされた瞬間にその役目を終えるたくさんの物事。

それがどのような影響を及ぼしたかとか、効果はどうだったかというのはどうでも良くて、ただそこに上げることを目的とされたたくさんの仕事。

その累積によって構築されたハリボテのような社会。

それが僕らの国だ。

カイゼンが僕たちの長所だったのでは?

使い捨てのたくさんの仕事たち。

その行く末を見ていくこと、検証することが僕たちの社会には必要なのではないか?

それを踏まえてカイゼンしていくことが僕らの長所ではなかったのか?

打ち捨てられたたくさんの仕事(だったもの)を見ながら、僕はそんなことを思う。

そして、それじゃいけないよな、という誓いを新たにする。

意味はなくても

効果検証を行うこと。

それが野暮だと言われても、それをやり続けること。

ミドルマネージャーがそれをやって何になるのか?

意味はないのかもしれない。

でも、そういうことの累積が僕たちの社会であるのも事実で、少なくとも僕はその流れに逆らってみようと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

身も蓋もない。

そんなことを思います。

本音と建前には本音が含まれていますが、現代においては本音すら含まれていない。

そこに僕は強烈な違和感を覚えます。

そして、それを開き直ってしまっていることも。

それでいいのでしょうか?

まあ、きっといいのでしょう。

でも、僕はそれにもう少し抗ってみようと考えています。

共にどこかで抗って頂けたら幸いです。