社会主義的マネジメントの限界

UnsplashAdrian Fleurが撮影した写真

格差は必要悪

僕は成果主義者である。

でも、そのような主張をすると「格差を奨励するのか?」というような反論に遭うことがある。

まあ言いたいことはわかる。

そして、現代が白黒付けたい時代であることも理解している。

ただ、僕が思うのは、白と黒の間には無数のグラデーションがあって、現在よりももう少し成果主義寄りの方がいいのではないか、ということである。

また、それによって生じる格差については、決して望ましいとは思わないものの、必要悪として受け入れるしかないのではないか、とも考えている。

というのも、平等や公平を求め過ぎることによって、活力が失われ、正直者が馬鹿を見る社会が現出してしまったと思うからである。

それは僕からすればとても社会主義的に映る。

社会主義の行く末は歴史を参照するまでもないだろう?

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

リスク恐怖症

「差を付けること」に皆ビビり過ぎ。

そんなことを思う。

そして、これはハラスメントだと言われることへの防衛策(リスク回避)だと僕は感じている。

現代は何でもハラスメントになる時代だから。

伊達に10年マネージャーやってないぜ

もちろん、言いたいことはわかる。

僕だって曲がりなりにも10年マネージャーをやっている。

その空気感は肌で十分わかっているつもりだ。

でも、それでいいのだろうか、とも思う。

ただ甘いだけ

確かに、皆を平等に扱うのは望ましいことである。

そして、マネジメントのレベルで言えば簡単でもある。

また、そういう態度は「優しい」という評価を受けやすいのも事実だ。

ただ、僕からすれば、それは「甘さ」に過ぎない。

ハラスメントは論外だ。

でも、甘いマネジメントだって同様である。

僕はその間に道はあると考えている。

0と100の間には無数の道がある。

皆極端すぎるのだ。

部下の仕事ぶりをわかっていないから差が付けられない

「差を付けることができないのは、部下の仕事振りをきちんと理解していないからである」

そんなことも同時に思う。

多くのマネージャー(上司)は実は部下の行動をわかっていない。

こんなことを言うと、方々から「いや、私は部下についてよくわかっている!」という反論を受けそうだけれど、それでも僕はそう主張したいと思う。

多くのマネージャー(上司)は部下の行動をわかっていない。

だから、評価に差を付けることができない。

それは厳然たる事実である。

マネジメント不全

ここにはマネージャーの質の低さがある。

マネジメント不全という根源的な問題がある。

それが僕がこのブログを立ち上げた動機であるし、現代においてもそれは続いている。

そういう意味では、マネージャーのレベルの低さが社会主義的マネジメントを助長しているとすら言える。

矛盾した卑怯な態度ではあるが…

部下たちはそのようなマネージャーの振る舞いを逆手に取り、楽な方へ動こうとしている。

それは人間の性であるし、ある意味では仕方のないことであると言える。

でも、同時に、そのような差のつかない現状に対して不満を持ってもいる。

そのような態度は卑怯ではある。

ただ、それを促しているのは我々マネージャーなのだ、きっと。

「中央」を向いたマネジメント

社会主義的マネジメントには「中央」が存在する。

その「中央」の言うことに対して、絶対的に服従するのが社会主義的マネジメントである。

そこに異を唱えることは許されない。

その方針にいかに忠実であるかが昇進の条件であり、異論を持つ者は周辺に排除されていく。

「中央」から来る命令がどんなに非効率であっても、そこで示される「物語」がどんなに現実にそぐわなくてもそれらに適合するエビデンスを用意できる者が優秀とされる。

そこには「外部」が存在しない。

あるのは内なるサークルにおける権力闘争である。

「成功」以外が存在してはいけないマネジメント

誰もが上を見て仕事をするようになるのが社会主義的マネジメントの特徴だ。

そして、パージされるのを極端に恐れるのも。

情報は歪められ、何をやっても「成功」しかないマネジメント。

「成功」以外は存在しない(してはいけない)マネジメント。

そんなものあるはずないのに。

思想の問題?

僕は多少差がついてしまっても、資本主義的な社会の方が望ましいと考えている。

その方が健全だと思うから。

もちろん、これは思想の問題である。

そして、日本は資本主義だとされてもいる。

でも、本当にそうなのだろうか?

僕にはよくわからない。

理想社会ニッポン

仕事をしてもしなくても、一定の処遇が補償される国。

絵にかいたような理想的な社会主義国。

現出したユートピア。

それが日本社会である。

皆で貧しくなっていくことも許容しようぜ?

確かにそれは望ましいことなのかもしれない。

そして、そこに異を唱えることは「格差論者」というレッテルを貼られるに値する行為なのかもしれない。

「なぜこんなにも平等なのにそんなことを敢えて言う必要があるのか?」

確かに。

だったら、皆で貧しくなっていくことも許容しようぜ?

購買力が落ちても、インフラが朽ちても、社会保障が縮減されても、文句を言うのはナシだぜ?

ない袖は振れないから。

でも、まだ振れる袖はあるのでは?

そこまで極端でなくても、再生の道はあるのでは?

僕はそんな風に考えている。

そして、僕にできるのは日常におけるマネジメントの方法を変えることだけであることも。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

二者択一。

二元論。

そういう文脈が多すぎて、というか、それでしか思考できない人が多すぎて、何だかなあと思っています。

いつの頃からか、「わかりやすさ」が最上位に置かれるようになったと僕は考えています。

でも、「わかりやすさ」は現実を読み解く際のツールとしては力不足です。

現実はもっと曖昧で複雑なものだから。

その中で何とか「淡い」を見つけて、藻掻きながら漸進していくのが僕たちにできることなのでは?

シンプルな世界観は全体主義に繋がりかねない。

陰謀論的世界観絶対的フィクサー勧善懲悪論

それを乗り越える為には、自分もそこに含まれていること、そして共犯関係にあることを自覚するしかありません。

前科を抱えながら、正義のヒーローを演じていきましょう。