温かさは伝わる

UnsplashJoshua Newtonが撮影した写真

ウェットなものは時代遅れ?

クールな時代である。

言いかえれば、よそよそしいとも。

できるだけ他者に干渉せず、他人は他人、自分は自分、そのような態度。

それが現代の作法だ。

そこにはハラスメント対策的な意味合いもあるだろう。

人間同士が近づけばそれ相応の問題が生じるのも事実で、それを避けるべく距離を空けること。

言ってみれば、それは大人の知恵である。

でも、心のどこかでは、何か足りないとも思っている。

昭和時代のウェットな風を浴びて社会人生活の最初期を送った僕は、当時の状況に郷愁を覚えたりもするのだけれど、それはあくまでも古い人間だからそう思うだけで、現代の若者たちはそう思わないものだと決めてかかっていた。

しかしながら、どうやらそうでもなさそうだぞ、というのが今日の話である。

それでは始めていこう。

熱量は案外変わらず伝わるものなのかもしれない

マネージャーになって10年が経ち、若手社員と呼ばれる人たちとの年齢差が開いてきた。

そんなどこからどう見てもおじさんの僕は、できるだけ若者たちと距離を近づけないように働くことが良いことだと思いながら仕事をしている。

彼(彼女)らには彼(彼女)らの距離感があって、それは僕が考えるよりも遠い距離であると、当然のように考えていた。

でも、何だか違うのかもしれない、と最近は思い始めてもいる。

というのも、ある種の熱量みたいなものは、昭和も平成も令和も大して変わらずに伝わるのかもしれないと思う出来事がこのところ続いたからである。

ちょっと前まではそれは「ウザいもの」だと思っていたというか。

だからウザがられないように、できるだけ距離を取るように仕事をしていたのである。

温かさを維持しておく

もちろん、ウザくならないように気を付ける、というのは今だって変わらない。

そして、こちらから近づくものでもない、というのも変わらない。

ただ、そこにいて温かさを維持しておく、というのが大事なのかなと思うのだ。

焚き火のようなもの

それは焚き火のようなものである。

別に誰の為でもなく、押し付ける訳でもなく、ただそこで静かにパチパチと燃えていること。

気が向けば、そこに近づいてきて暖を取ってもいいし、別に取らなくてもいい。

そのような感じ。

でも、焚き火がなければそれすらもできないし、それはそれで物足りない。

そういうことを思うのである。

猫との関係性に似ている

これは何だか不思議なものである。

僕は猫という動物が好きなのだけれど、猫と接するような感じと言い換えるとわかりやすいかもしれない。

どう考えても、猫という動物は温かさを求めているようには見えない。

それは犬という動物を比較対象として持ち出せば、一目瞭然である。

尻尾を振ってくれる訳でもないし、飛び掛かって喜んでくれる訳でもない。

嬉しいんだか嬉しくないんだか、楽しいんだか楽しくないんだか、よくわからない生き物である。

でも、気が付いたら近づいて来て、甘えたりしている。

かといって、「おお、距離が縮まったな」と思って撫でたりすると、ぷいっとどこかに行ってしまう。

そんな感じを僕は若手社員との関係性の中にも思う時がある。

距離を空ければリスクは少ない。でも…

何かと面倒な時代である。

ちょっとでも枠からはみ出ると、ハラスメント警察がやってきて、すぐにその人を逮捕してしまう。

もちろん、ハラスメントは言語道断だ。

でも、人間関係において近づけば問題が生じるのはある種当たり前の話で、それをハナから断絶してしまうのは、それはそれで違うような気もしている。

確かにその方がリスクは少ない。

当たり障りのないことを言っていれば、問題は生じない。

ただ、欠乏感みたいなものは生じているような気がしている。

なくてもいいけれど、何となく物足りない

なければないで、やっていくことはできる。

ただ、それでは何か物足りない。

そのような時代の雰囲気の中で、マネージャーはどのように振舞うべきなのだろうか?

焚き火は不必要?

先程も書いたように、火をくべておくことがその1つの答えなのではないか、と僕は考えている。

誰かを温めようということではなく、自分がそのような状態の方が好ましいと思うから、そこで焚き火をしていること。

来たければくればいいし、話がしたければすればいい。

でも、あそこで焚き火をやっているということすらわからなければ、それすらもできない。

冷めた時代にそんなものは不必要なのではないか?

僕もそう思っていた。

でも、案外そうでもないのかもしれない。

というか、人間はそんなに簡単に変わるものではない。

その温かさの表現や所在のようなものが、ややこしく面倒になっただけなのだ、きっと。

減ったけれど、絶滅したわけでもない

誰に誇示する訳でもなく、森の奥のひっそりとした場所で、僕は静かに焚き火を続けている。

興が乗れば、そこで1人踊ったりもする。

誰もいないと思っていたその場面を覗かれて恥ずかしく思ったり、そのことをネタして下らない話をしたり。

そういうことが現代の職場にはなくなってしまったように思っている。

そして、それはある意味での競争力の欠如にも繋がっているような気がしている。

ただ、それは絶滅した訳ではないとも思うのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

今日の話と関連付けて言うなら、温かさを伝えたり、感じたりする場面が減ったこともあるような気がしています。

わかり易く言えば、職場から飲み会が消え、残業が減りました。

それらは合理性という観点から言えば、明らかに不必要なモノです。

でも、それがあることで温かさが伝わっていた部分もあったのでは?

物事に合理性や意味を求めていくと、究極的にはそれは「いらない」という判断になりがちです。

それは「不要不急」という言葉があれだけ非難を浴びたことからもうかがい知れます。

でも、それだけでは人生(仕事)は面白くない。

もちろん、この辺の話は価値観の範疇の話です。

ただ、それが日本企業の競争力の源泉でもあったのでは?

そうするとこの話ももう少し意味合いが変わってくるようにも思います。

謎のお茶会や社内運動会とかではなく、僕は静かに焚き火を続けようと思っています。

どこかで同じように灯し続けて頂けたら幸いです。