間に入ろう

黙って成り行きを見ている人
中間管理職という仕事をしていると、上と下の間に立たされる場合がよくある。
そのような時にどのように振舞うべきなのだろうか?
結論から述べれば、「正しいと思うことをすればいい」ということになるのだけれど、上からの圧力に負けて、往々にして上の方についてしまいがちになるのが中間管理職という生き物である。
自分の部下と自分の上司の意見が異なる時、あなたはどのようにそこに関わっているだろうか?
また、自分の上司の意見が明らかに間違っていると思う時ならどうだろうか?
これは個人的な意見であるが、このような場合の最近の傾向として「黙って成り行きを見ている人」が増えたように思う。
どちらの側にも付かず、意見の表明もせず、ただ黙ってそこに座っている人たち。
確かにそのようにすれば、物理的に「間に立たされる」ことからは逃れられるだろう。
でも、果たしてそれで良いのだろうか、というのが今日の話である。
それでは始めていこう。
マイナス。マイナス。
減点主義。
組織の中で働いていると、それも中間管理職として働いていると、よく感じるのがこの種のことである。
ミスや欠点があったら点数を減らしていくという考え方。
今日のテーマもそこに関わっているような気がしている。
保険でガッチガチ
冒頭の例であるが、仮に部下と上司の意見が異なっており、上司の意見が間違っていると自分でも思った場合でも、「減点されるかもしれない」ということが頭をもたげ、そのまま静観してしまう、そんなことはないだろうか?
これは同時に「上司の意見に賛同している訳ではない」という言い訳を後々できるような「保険」にもなっている。
後から部下に問われても「賛同している訳ではない」と言うことができるように、ただ黙ってやり過ごすこと。
確かにセーフティだろう。
でも、それではそこにいる意味はないのではないだろうか?
というか、減点さえされなければいいのだろうか?
僕にはこの辺がよくわからない。
会議で発言しないなら呼ぶ必要ある?
会議において発言をしないこともここには関係している。
会議において発言をしないのであれば、その人を参集する必要はない。
それくらい強いことを僕は思ってしまう。
でも、大抵の人は会議において発言をすることはない。
結果、声の大きい人や立場が強い人の意見が採択されることとなる。
そして、それならそれで承認すればいいのだけれど、発言をしないこの種の人達は会議室を出た瞬間、口々に異論を話し出す。
だったら、会議中に言えばいいのに。
意見を出すことで、煙たがられたり、減点されたり、そういうことが嫌なのだろうか?
僕にはよくわからない。
意味と意思
僕は最近「意思」について考えている。
このことについてはどこかで書いたかもしれないけれど、多くの人は「意味」について考えこそすれ、「意思」についてはあまり考えていないように感じられる。
僕がなぜ「意思」について考えているかというと、それこそが人間がそこにいる「意味」だと思うからである。
「意味」を突き詰めて行っても、そこに答えはない。
でも、「意思」は存在する。
というか、AI全盛の時代の中で、「意思」を表明することでしか、人間はAIを凌駕することはできない。
そんなことを考えている。
意味だけならAIで良いのでは?
(全然関係なさそうだけれど)今日の話もそれに関係している。
意思を表明しないなら、AIに判断をさせればいい。
きっと合理的な判断を下してくれるだろう。
両者の意見が相違していても、論点を整理し、どちらの方がより「意味」があるかを裁定してくれるはずだ。
でも、それが納得的かどうかというのはまた別の話であると僕は思う。
納得に意味はいらない
意思を混ぜ込まない限り、人は納得しない。
意思が存在していることが感じられない限り、人は納得しえない。
僕はそのように思う。
だからこそ、意思の表明が必要なのだ。
そして、間に入るということは意思を表明することと同義である。
自分はどちらの意見が正しいと思うのか(もしくはどちらの意見も正しくないと思うのか)、を表明すること。
それにより意思が表明される。
それは意味とは違う。
また、厳密に言えば正しさとも違う。
ぶっちゃけた話、意味がなくても、正しくなくても、人が納得するということは起こり得る。
この辺は誤解している人も多いと思うけれど、意味があれば、また正しければ人は納得する訳ではないのだ。
間に入らないこと、意思を表明しないことは、この納得可能性を放棄することに等しい。
だったら、その人が存在する必要ある?
そのように僕は考えている。
停滞の片棒をまだ担ぐのかい?
確かに、ここには減点主義への恐怖が内在している。
それは僕だって一緒だ。
特に上司がその議題に対して強い意見を持っているのであれば怯んでしまう。
でも、それこそが中間管理職の存在意義なのでは?
そこで黙って何もせず、誰もが納得的でないことを粛々とやることが良しとされる状態が続いたことが、この失われた30年の1つの要因なのではないか?
僕はそのように考える。
というか、僕にできることはそのくらいしかない。
僕はこの停滞を打破したいのだ。
その為には多少疎まれたって仕方がない。
そうだろう?
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
不作為の罪。
不作為も罪では?
それが停滞の原因では?
僕はそんなことを思ってしまいます。
1人1人の小さな不作為が積み重なった結果生まれたこの停滞。
それを変える為には、僕たちが不作為をやめるしかありません。
そして、不作為をやめるということは意思を表明するということを意味します。
意思を表明していきましょう。