空いた穴を埋める能力と、穴が開かないように先回りする能力
想像力と知性の欠如
会社の中で「優秀」と言われる人たちと話をする機会があって、その時に感じたことを今日は書いてみようと思っている。
それがテーマにも繋がっている「空いた穴を埋める能力」と「穴が開かないように先回りする能力」についてである。
僕が彼らから感じたのは「空いた穴を埋める能力が高いな」ということである。
何か問題が生じた時、それに早急かつ適切に対処する能力は確かに高い。
でも、一方で、その問題が生じないように事前に対処することはできなかったんだよなと思ってしまったのも事実である。
僕からすればそれは「起きるべくして起こった事象」である。
ただ、どういうわけか、それを事前に察知するようなセンサーは彼らにはないようである。
「敢えてやらなかった」とか「見て見ないフリをしていた」ということではなく、本当に初見というか、びっくりしたというか、そんな印象を受ける。
ある種の無垢性。
そこに僕は想像力と知性の欠如(強い言葉であるが)を感じる。
今日はそんな話だ。
それでは始めていこう。
問題をどのくらい放置できるのか(またはできないのか)
マネージャーとして働いていると、「この問題を放置していると、いずれ大きな問題になるだろう」という予兆のようなものが出てくることがある。
それに対して、どのような対応をするかというのもまたマネージャーの腕の見せ所である。
すぐに対処した方がいいのか、むしろすぐに対処すると問題が大きくなるのか、どのくらいまで放っておけるのか、放っておくとどのくらいのリスクが残存するのか、そのようなことを天秤にかけて物事を決断していく。
そして、(自分で言うのも何であるが)僕はこの辺のリスク感覚(とバランス感覚)が優れていると自認している。
正しさでは問題は解決できない
「問題には早急に対処すべきだ!」という意見は「正しい」けれど、それがその時点において有効かどうかというのは意見が分かれるものだと僕は思っている。
正論では物事は解決に向かわない。
適度に「泳がせる」ことが重要なことだってある。
これが現実的なスタンスなのではないかと僕は考えている。
ただ、冒頭に書いた「優秀な人たち」は、そもそもの問題についての感度が鈍麻しているような感じがする。
当初は「臭い物には蓋」というか、「敢えて見て見ないフリ」をしているのだと思っていたのだけれど、彼らが単純にそれに気づいていないというのがわかって、茫然と言うか、愕然としたというのが本当の所である。
問題に気づけなければ、問題に対処することは不可能になる
氷山モデルではないけれど、物事には表面に出ている部分と、そうでない部分があって、真因は水面下にあることが大半だ。
でも、真因に手を突っ込むと返り血を浴びることも多いし、そもそもの組織自体が崩壊するリスクもあるので、そこに手を入れるタイミングというのがとても重要となる。
しかしながら、そもそもそこに問題があるということに気付いていなければ、問題に対処することは不可能になる(そこに問題など存在していなのだから)。
そして、僕はそこが致命的な欠損なのではないかと思ってしまったのである。
鈍感力=想像力の欠如?
それはある意味では「想像力の欠如」とも言える。
エスタブリッシュメントとも言えるような彼らに対して、雑草程度の僕がこんなことを言うのはとてもおこがましいけれど、とても重要なことであると僕は思っている。
「穴を埋める能力」を競うなら、彼らはピカイチだろう。
でも、それが起きないよう事前に手を打つことに関しては標準以下ですらある。
それを「鈍感力」と言うならそうなのかもしれない。
ただ、もしそれが「鈍感力」であるなら、そんなものいらねえよと僕は思ってしまう。
問題が生じないように先回りする能力は評価が困難だ
表現が難しいけれど、「問題に適切かつ早急に対処する能力」は評価が容易である。
一方、「問題が生じないように先回りする能力」は評価が困難だ。
その能力が遺憾なく発揮されればされるほど、問題が生じないのだから。
そうすると、能力を評価する場自体がなくなってしまう。
一方で、「問題に適切かつ早急に対応する能力」はいつだって評価が可能だ。
となると、前者の能力が高い人ばかりが優秀な人と解釈されるようになりがちである。
でも、果たしてそうなのだろうか?
僕にはこの辺がよくわからない。
後手に回ることは死を意味する
「適切に穴を埋める能力」は常に後手に回っている。
それでは死は不可避だ。
でも、それが優秀の尺度だとされている。
先手を打てることが重要なのではないか?
そして、それはきっと当社だけの話ではない。
「想定外」という言葉の乱発は、そのような後手に回る人たちをエスタブリッシュメントだとしてしまっている日本社会全体の問題なのではないか?
そんなことまで僕は思ってしまうのである。
秀才主義への嫌悪
「優秀な」人たちが集まる場所で感じる独特の空気感。
それを嫌らしい感じで表現するなら「秀才たちの集い」である。
テストに的確に答える能力が高い(だけの)人たちの集まり。
常に後手に回ることでしか優秀性を表現できない人たちの群れ。
というか、「それ以外に優秀性などあるのか?」と考えているような人達。
皆さま盛大な拍手を。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文を書いた後で僕が思ったのは、「では先回りする能力を持った人をどのように見つければいいのか?」ということです。
「先回りする能力が長けていることにより、その能力を評価する場自体が消失してしまう」というジレンマをどのように解消すればいいのか?
また、これを裏返しにすると、「空いた穴を埋める能力」というのは「敢えてそこに埋めやすい穴を空ける能力」ということも言えてしまうのかもしれません。
そのような出来レースの輪から抜け出る方法とは?
きっとそれはそんなに難しいことじゃないはずです。
でも、エビデンスやKPIみたいなもので人事評価を行うなら、そこから抜け出すことは不可能でしょう。
「あの人がいなくなってから問題が起きるようになった」
不在により顕在化する不在性。
それを適切に評価できるようなマネージャーになっていきましょう。

