マーケティングが行き過ぎると貧相になる

UnsplashCampaign Creatorsが撮影した写真

効率化への過度な依存

僕は営業のマネージャーをやっている。

その中で最近違和感を覚えているのが、マーケティングへの過度な信仰である。

もちろん、営業という仕事なので、どの層にニーズがあるのか、それはどのように開拓したらいいのか、という考え方に異論はない。

でも、それをあまりにも絞り過ぎる(先鋭化し過ぎる)と、そこから零れ落ちてしまうものもたくさんあるし、発展性もあまりないのではないかと思ってしまう。

これは「効率化」への過度な依存と言い換えてもいいのかもしれない。

「経営の数値化」が進み、何事においても成果を数値で表現しようとするあまり、「数値にならないものは効率的ではない」「効率的でないものはやるべきではない」という思考回路になってしまい、そもそものターゲット自体がなくなってしまっている、そのように感じるのだ。

戦略という概念において、「有限な資源を需要の多い分野に集中的に投下する」ことは非常に正しいことである。

でも、それはあくまでも需要が顕在化しており、需要が需要としてわかりやすく明示されている場合のみ当てはまる話である。

そして、マネージャーとしては、顕在化していない部分も同時に追っていかなければ、成果というものは凡庸になってしまう(というか、明示された需要がその上限となることが規定されてしまう)のだ。

何だか訳が分からないかもしれないけれど、今日はそんな話をしていこうと考えている。

それでは始めていこう。

偶然を呼ぶ込むこと

コスパなのかタイパなのか人員削減なのかわからないけれど、最近ターゲットを絞ることを盲目的に良いことだと信じている人が増えたように感じている。

もちろん、意味や理路はわかる。

ターゲットを絞り、そこに集中的に営業をかけることで成果を挙げようという思想。

別にそれが間違っているということを言いたい訳ではない。

ただ、それでは市場は広がらないよね、とも思ってしまう。

もう少し言えば、「偶然を呼び込めない(呼び込みにくい)」と感じてしまうのだ。

必然性と偶然性

僕は営業においては、必然性と偶然性のバランスが大事であると考えている。

マーケティングの思想というのは、必然性への志向だと僕は思う。

確実に手堅く数字を上げること。

それは別に悪いことではない。

ただ、必然性を高めるというのは範囲を規定することと同義であって(だからこそ必然に近づく訳で)、そればかりをやっていると、限界もまた規定されてしまうと思うのである。

だからこそ偶然を呼び込むような動きが必要になる訳だ。

偶然はマーケティングで呼び込むことはできない

でも、この偶然を呼び込む動きというのは、マーケティングとは相性が悪い。

偶然はマーケティングによって呼び込むことはできない(だからこそ偶然なのである)。

もちろん、「偶然を呼び込むようなマーケティング」という方向性がないとまでは言えないけれど、ちょっと親和性がないというか、論理破綻しているというか、そのように感じてしまうのである。

効率至上主義

これは日々の行動にも当てはめることができる。

マーケティングを高めるなら(必然性を上げるなら)、目的の顧客に会うことを繰り返していけばいいし、その頻度を高めていくことが重要となる。

要はできるだけ効率を上げて、目的の顧客との接点を増やしていくことがその評価の尺度となる(例えば架電件数とか、面談件数とかそういった目標である)。

その考え方においては、移動時間や雑談の時間というのはロスタイムとなる。

なので、できるだけ移動が少ないようなルートを取るとか、リモート面談などが推奨されるようになる。

また、「戦略的雑談」みたいなものが謳われるようになる。

確かに効率的だ。

でも、そこに偶然性は生じない。

僕はそれだけではダメだと考えている。

ナンセンスな効率厨たち

イメージとしては「適切な寄り道」みたいなものを組み込む必要があると考えている。

目的の顧客に会った帰り道でちょっと別の顧客のところに寄ってみるであるとか、主目的の話が終わった後に本当の意味での雑談をしてしまうとか、そういう「余白」の部分が偶然を呼び込む為には重要である。

でも、効率を至上とする人たちは、これを無駄だと排する。

確かに無駄ではある。

ただ、それは必要な無駄なのだ。

それを効率厨達は理解しようとしない。

自分たちがマーケティングした想定顧客に、できるだけ高い頻度でアタックすることが成果を挙げる為には最善であると考えている。

これはナンセンスだ、と僕は思う。

そして、それはマネジメントにおける概念にも適用されているような気がするのだ。

テイラー主義だけではダメ

効率至上主義はテイラー主義を下地としていると僕は考えている。

時間効率を上げれば、成果は上がるという思想。

それを監督するのがマネージャーの仕事であるという考え方。

もちろん、完全に否定はできない。

マネジメントにはそういった側面があるのは事実だろう。

でも、それだけでは成果は最大化しない。

縮小していく市場の中には、もう魚はいなくなっている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

偶然性の欠如。

それが最近の日本企業の元気のなさにも繋がっているような気がします。

それこそが日本企業の強みであったはずなのに。

「経営指標」をコンサルは高らかに謳います。

でも、それによって本当に成果は上がるのか?

僕には甚だ疑問です。

似非科学主義を超えていきましょう。