暇だと揉める

UnsplashAdrian Swancarが撮影した写真

同僚ではなく仕事へ意識を向けさせる

部下同士の人間関係で悩んでいる方に朗報です!

原因の特定ができました!

それは暇だからです!

という、謎に意気込んだ声明から文章を始めてみる。

でも、そうなのだ。

部下達の人間関係を鑑みると、適度な忙しさというのは仕事において重要であり、意識の矢印同僚に向かわせるのではなく、仕事に如何に向けさせるかがマネジメントの手腕の見せ所なのではないか、と思ったので今日はそれを文章化してみようと考えている。

それでは始めていこう。

社会的関係の中で生きる動物

人間は社会的関係の中で生きる動物である。

そして特に日本社会はその傾向が顕著なのではないかと僕は考えている。

自分が集団の中でどのような地位を占めるのか?

それを必要以上に気にしながらみんな生きているように思われる。

仕事の量(と質)が適切なのかを考えてみる

これは仕事においても同様である。

集団内における相対的地位はどの辺りにあるのか?

それを巡って小競り合いを繰り返しているのが日常である。

僕からすれば非常にどうでもいいことであるけれど、ここに情熱を燃やす人は本当に多いし、それがマネジメントという仕事を(必要以上に)難しくしている、そんな風に思う。

そういった状況に直面した際に、1つ考えておいて損がないのが今日のテーマである。

チーム内の人間関係が芳しくないと思ったら、仕事の量(と質)が適切なのかどうかという判断軸を入れてみるというのは悪くない切り口だと僕は考えている。

以下、もう少し詳しく書いていく。

(無理やり)差異を見つけ対立する生き物

10年以上マネジメントという仕事をやっていて僕が思うのは、「人は揉める」ということである。

放っておくと、何らかの対立の軸を(無理やり)見つけてきて、そこに差異を作り、揉めようとするのが人間という生き物である。

それは先述した相対的地位に関係している。

部族みたいだ

微細な差異による優劣とその誇示による相対的地位の顕示。

それはきっと部族的な感覚にも近しいものなのかもしれない。

「アイツ、敵!」

「コイツ、バカ!」

そのような原始的な敵味方の区別。

そのようなマウンティング合戦により、自分がどのような存在であるのを日々確かめ続けるのが人間という生き物なのだ(とても虚しいが…)。

暇にさせないというアイディア

それを嘆いていても仕方がない。

我々マネージャーはそれを前提として、現実的かつ効率的な運営方法を考えなければならない。

そして、その1つのアイディアとして、「暇にさせない」ということがあるのではないか、というのが今日の話である。

忙しければ、同僚に構っている暇はない

仕事が忙しければ、部下たちの意識は否が応でもそちらに向く。

目の前の仕事に取り組まなければならないからである。

同僚がどうであるかなんて考えている暇はない。

まずは目の前の仕事を片付けなければならない。

そのように仕向けていくこと。

仕事量の適切なコントロール

これをちょっとマネジメント風に言い換えるならば、「仕事量の適切なコントロール」と言えなくもない。

部下それぞれの仕事量を適切にコントロールすること。

そして、それは(副次的に)メンバー間の人間関係を良化することに繋がるということ。

そのようなイメージが大切である。

「適度に」忙しいことが重要

もちろん、これが行き過ぎてもまた問題である。

あまりにも忙し過ぎると、職場は殺伐としてくるから。

なので、「適度に」忙しい状態というのが望ましいということになる。

そして、これができるのはマネージャー以外にいないのではないかと僕は思うのだ。

無駄な仕事が多すぎる

基本的な前提として、僕は日本の職場というのは無駄な仕事が多すぎるし、人が多すぎると感じている。

無駄な仕事をやめれば、そこまで人がいなくても問題ないのだ。

無駄な仕事を前提としているから、多くの人を抱えていなければならないと思い込んでいる。

それが結果として生産性の低下を招いている。

それをやめればいいのである。

究極的には人は足りているのでは?

もちろん、昨今の人手不足という状況は理解できる(し、体感もしている)。

でも、そこには「ムダな仕事をやめる」という概念が欠如しているようにも思う。

ムダな仕事をやめれば、この人手不足感も解消できるのではないかとも思うのだ。

そこには手を付けず、人だけを少なくするから、問題が大きくなっているような気がする。

たぶん究極的には人は足りているのであろう。

無駄な仕事をしているから、人が足りないように映るのである。

それをやめたら?

その分を良く働く人に分配した方がいいのではないか?

批判も多そうだけれど、僕はそのように感じている。

余裕があるから揉めるのでは?

仕事に対する対価が今よりも上がれば、その仕事から離れるリスクも同時に上がる。

となると、同僚と揉めたりしている暇はないということに否が応でも気付くはずである。

それは確かに今よりも「厳しい社会」にはなりそうではある。

でも、内輪揉めやイジメのようなものが罷り通っている現状よりは幾分マシなのではないかと僕は思う。

働こう

部族内の争いなど正直どうでもいい。

僕はそのように思う。

その中における上下関係の誇示(マウンティング)には何の価値もない。

だったら、その分働けばいいのでは?

議論を呼びそうな話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

議論を呼びそうな話でしたが、いかがだったでしょうか?

僕自身は本文を書いてから、自分が成果主義を推奨しているのはこの辺のことも関係しているのではないかと感じました。

「職場は仕事をする場所である」

それを理解している人はとても少ないです。

そこに余計な人間関係を持ち込むからややこしくなるのです。

ドライに仕事をしていきましょう。