キャリアを明確に描くことへの違和感

UnsplashEstée Janssensが撮影した写真

キャリアは明確に描くものだ?

多くの人は「キャリアを明確に描きなさい」と言う。

そしてそれを無条件で良いものだと信じ込んでいる。

きっとこのブログを読んで下さっている人の大半もそのように考えているだろう。

でも、僕はこのような考え方にずっと違和感を覚えている。

それは何も逆張りをしたいからではない。

単純にキャリアというのはそういうものなのだろうかと思うからである。

僕は仕事というのは、ある種「呼ばれるもの」だと考えている。

英語で天職が「calling」と言われることに、僕は「その通りだよな」と首肯する。

これは必ずしも天に呼ばれることだけを意味しないと考えている。

何か(誰か)に請われること。

それがキャリア形成において重要なのではないか?

今日はそんなことを書いていこうと考えている。

それでは始めていこう。

なりたいものがない

キャリアの話になると、「で、どういう風になりたいの?」ということを問われる。

その度にいつも言葉に詰まる。

そして、「何も考えていないようではダメだよ。明確にキャリアを描かなきゃ」と窘められる。

その度に違和感を覚える。

もちろん、言わんとしていることはわかる。

また、「それがあったらいいな」とも思う。

でも、昔からなりたいものや、やりたいことがないのだ。

それがないことはネガティブなことなのだろうか?

僕にはいつもそれがわからないでいる。

想像力を奪うだけでは?

確かに、「大まかな方向性」のようなものはあった方がいいのかもしれないとは思う。

「こういう風になりたいな」であるとか「こうはなりたくないな」というような、ザックリとしたイメージはキャリア形成上必要なことだとは思う。

でも、「あの仕事」であるとか、「あのポジション」というような明確なキャリア像というのはかえって想像力を奪うようで、あまり好きになれないのだ。

そして、能力や適性というものを決めるのは、自分ではなく他者の方が正確なのではないかという考え方も、この違和感には関係しているような気がしている。

自分の長所や短所は自分ではわからない

僕は自分自身では自分の長所や短所がよくわからない。

「好きなこと」「嫌いなこと」はわかるけれど、何が得意なのか、不得意なのかの本当のところはよくわからない。

もちろん、「こうだろうな」というものはある。

でも、時にそれが外れていたりもする。

不得意だなと思っていたものを褒められたり、得意だと考えていたものが案外そうでもないと評価されたり。

そのような毀誉褒貶を経て、自分では自分の良さ(や悪さ)がわからなくなっているというのが現状である。

「人並み以上にできる」という自信

また、ここには「大抵のことは人並み以上にできる」という自信も含まれている。

他者に何らかの仕事をあてがわれたとしても、その期待値程度(もしくはそれ以上)の仕事をすることはできるという自負が僕にはある。

そういう意味においても、「請われれば何でもやるよ(きっとできるだろうし)」という感覚なのである。

そして、それは今までの僕のキャリア上、それなりに成功を収めてきたとも思っている。

キャリアを明確に描いた僕がいる世界線

でも、もしこれがキャリアを明確に描いていたなら、今の僕は違った感想を持っているかもしれないなとは思う。

というのも、今の僕がやっている仕事は、入社した時にぼんやりと描いていたものとは違うからである。

こういう書き方をすると「キャリアを明確に描いて来なかったから、そのような意に沿わないキャリアになったんじゃないか!」と叱責してくる人が出てくると思うし、それはもしかしたら的を射ているというか、その通りなのかもしれないとも思う。

「キャリアを明確に描いた方の僕がいる世界線」がわからないから。

もしそうしていたら、今よりも望ましい僕がそこにいたのだろうか。

そうでもないのではないか、というのが正直な感想だ。

他者から適性があると思われなければそこには行けない

自分では自分のことなんてよくわからない。

他者の評価こそが自分の評価である。

このような言明に「丸投げ」みたいな印象を持たれる方もいるかもしれないけれど、そういうことでもないのである。

どんなに熱意があったとて、自負があったとて、その仕事に適性があると他者から思われなければ、その立場に行くことはできない。

そのような現実的な解答なのである。

もし誰かが僕にそのポジションに適性があると思うなら、きっとそれなりに適性があるということなのだろう。

僕はそのようにしてキャリアを考えている。

そして、部下にも「キャリアが明確にないことを恥じる必要はない」と伝えている。

あった方が有利なのは前提として…

もちろん、それがあればあったでこの社会で生きることにプラスに働くと思う。

皆、キャリアが明確にあることに対してポジティブな印象を持っているから。

明確なキャリア像があることが有利であることを前提として、それでもそれがないことは決して悪いことではないし、間違っている訳でもないと僕は考えている。

あれ? どうなんだ?

マネージャーになるなんて想像もしていなかった僕が、10年もマネージャー業をやっているというこの現実。

そういう意味では、キャリアを明確に描いておけばよかったのか?

よくわからない話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

昔から「何になりたいの?」という質問が苦手でした。

「別になりたいものなんてないし…」

それが正直な感想です。

それは社会人になっても同様です。

なりたいものなんてないし、なりたい人もいない。

でも、だからと言って投げやりになっている訳ではありません。

ただよくわからないだけ。

おや?

そんな奴が良いキャリアなんて歩める訳なんてないよな。

ただ、「本当にそうなんでしょうか?」とは思っています。

コンバートによって活躍する選手だって腐るほどいるじゃない?

僕が思うのはそんなイメージです。

「ここじゃなければダメ!」という言明は想像力の欠如じゃない?

よくわからない話になりましたが、引き続き読んで頂けたら幸いです。