仕事と処遇の調整を

UnsplashPiret Ilverが撮影した写真

仕事とその対価

以前日本経済がインフレ傾向になってきたことを書いた。

今回はその続きである。

というか、それによってようやく仕事と処遇の調整が可能な環境が近づいてきたのではないか、ということを書いていこうと考えている。

もちろん、仕事とその対価を完全に等価にすることは不可能だろう。

でも、現在よりは近づけることは可能であるはずだ。

それも給与を下げることが人々の抵抗によって実現が難しい(賃金の下方硬直性)のであれば、給与を上げるという形で(結果的に)調整することはできると僕は考えている。

少なくとも、「正直者が馬鹿を見ない」社会の実現の為には、そのような動きが必要であるはずだ。

それでは始めていこう。

義務よりも権利が圧倒的に優勢な時代

「働かないおじさん論」

この議論に対してはテンプレ感というか、ちょっと偏っているというか、そのように思う部分もあるのだけれど、言わんとしていることはわからなくもないというように感じている。

職場には働かない人がいる(おじさんに限らず)。

それもコスパ上昇の為に意図的に行っている者もいる。

そういう人に対して指摘をしたり、苦言を呈したりすると、すぐハラスメントだと糾弾される。

結果、義務よりも権利が優勢となり、皆が権利を強めに主張し出す。

そして、職場のモラールが低下していく。

働かない方が得な社会

このような職場環境においては、当然ながら成果など上がるはずもない。

それが日本社会の低生産の1つの要因だったと僕は考えている。

今日のテーマに即して言うなら、長い間仕事と処遇がアンマッチであったのだ。

それも「できるだけ働かない方が得」という傾向がより顕著であったように感じている。

それをやめたいとずっと考えてきたのだけれど、デフレ経済下においてはそれは中々難しい。

元々の賃金の下方硬直性に加え、価格への転嫁も難しいからである(この辺の話は以前のブログをご参照頂きたい)。

物価って上がるものだよねという合意

「頑張っても頑張らなくても同じ」

それが日本経済の実態であった訳だ。

そこにインフレショックが訪れた。

きっかけはコロナに端を発したサプライチェーンの混乱であると思うのだけれど、それが日本にいる人々のマインドに変化をもたらし、「物価って(当然に)上がるものだよね」という雰囲気が醸成されるようになった。

今や物価が上がっていくことを疑う人は少ないだろう。

そして、官製春闘から始まった賃上げの流れが定着化しつつある。

物価も賃金もある程度上昇していくことがほぼ自明になったのが現在である。

そして、今回のテーマというのはこの賃上げについて、ベースアップも大事だけれど、差を付けるべきところはきちんと差を付けるべきなのではないか(仮にそれで賃金格差が多少広がったとしても)というところに繋がっていく。

賃金を下げることは難しい

処遇を下げることは現実的には難しい。

それは自分に置き換えてみれば明白である。

賃金を下げられて気分よく働ける者はいない(僕だって嫌だ)。

となると、賃金を下げることで仕事と処遇のバランスを調整することは起こり得ない(起こりづらい)ことになる。

そこで僕が考えているのは、賃金を上げるべき人だけ上げればいいのではないか(もしくは大きく上げればいいのではないか)、ということである。

視認しづらいが、確実に大きくなる

確かにこの方法だと1年かそこらではその差が視認されづらいだろう。

でも、数年経てば、その差は大きくなっていくはずだ。

そうやってきちんと成果を出した者に対して報いていくのである。

賃金も上がるが、価格も上がる

「いやいや、でもそうすると人件費が上がるのでは?(賃金を下げる人がいないと人件費総額が上がるのではないか?)」

そのような懸念も尤もである。

ただ、繰り返しになるが、この話はインフレ下での話である。

また、そこでは適切な価格転嫁が可能な状態であることが前提となっている。

となると、賃金の上昇の大半は、販売価格の上昇(価格転嫁)によって吸収できるはずである。

それは単純に「良いモノ(物・者)は価格が高い」ということを現している。

ましてや、高い成果を出す者は、その文字通り高い成果を出すわけで、売上や利益だって上がるだろう。

そのようなある種当たり前の状態が実現できるようになってきた訳だ。

成果と処遇のバランスを

成果を出せばそれに応じて賃金が上昇するのであれば、またそれを皆が理解するようになれば、今までコスパばかり考えていた者の中にも考えを改める者が出てくるはずである。

そして、これは「モーレツに働く」ことを必ずしも意味しないことも付言しておく。

成果を出すことは労働時間を延ばすということと直結しない。

もちろん、ある程度は比例関係にあるのかもしれない。

でも、令和においてはそういう方向に進んではいけないのだと思う。

そういう意味においては、「仕事と処遇の調整」というタイトルではなく「成果と処遇の調整」という方が、僕の言わんとしていることには近しいのかもしれない。

あくまでも基準は成果であり、どれだけ一生懸命働いたかとか長く働いたかというのは、処遇にはあまり関係ないはずである。

そのようにすれば「正直者が馬鹿を見ない」社会が近づいていくような気がしている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

僕は成果主義者です。

そして、インフレ環境になったことで、ようやくそれが実現可能になったと感じています。

もちろん、ここには格差の問題が潜んでいます。

でも、僕は適切な格差というのは必要悪だと考えています。

それは社会主義国の失敗の事例を挙げるまでもなく明白なことだと思っています。

成果を出す者に適切な対価を。

その足を引っ張ることのない(陰湿でない)社会を。

僕が願うのはそのような状態です。

異論はあるとは思いますが、引き続き読んで頂けたら幸いです。