ペーパーテストの限界

UnsplashDmitry Ratushnyが撮影した写真

世界中ペーパーテストが溢れている

人間の能力を測るのは難しい。

だからペーパーテストに頼ろうとする。

これはどこでも見られる現象である(例えば資格試験など)。

でも、(当然ながら)そこには限界があるよね、というのが今日の話である。

また、もう少し丁寧に言うなら、ペーパーテストには限界があることを認識した上で能力を測定しようとすべきなのではないか、ということになるのかもしれない。

いずれにせよ、今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

社会人にもテストを?

学生にはテストがある。

でも、社会人にはテストがない。

だから、社会人でもテストをやったらどうか?

そんな短絡的とも言えるようなことが当社では起きている。

もちろん、方向性というか、言わんとしていることはわからなくはない。

それくらいしなければ、自ら勉強しようとする者が殆どいないから(それはそれでとても大きな問題ではある)。

でも、だからと言ってペーパーテストで万事解決かというとそんなこともないのではないか、と僕は考えている。

エントリーチケットとしてのペーパーテスト

ペーパーテストはあくまでもエントリーチケットに過ぎない。

それで能力の優劣を競うものではない。

最低限の能力があることを示すものだ。

だから、それは能力評価の主要な部分を占めるのではなく、補助的に使うべきだと僕は思う。

ただ、どうにもそういう方向に進みそうもないのである。

秀才たちが考えること

僕は折に触れて「この会社は秀才が多数派を占めているんだよな」ということを思う。

今回の件もその内の1つである。

たぶん学生時代にペーパーテストで良い思いをした人たちが偉くなり、社員の教育にはペーパーテストが重要だよねと考え、ペーパーテストを実施している。

確かに、ペーパーテストを実施すれば、それに向けた勉強を社員はするようになるだろう。

でも、「求めている能力というのはそういうモノなんでしたっけ?」と僕は思う。

記憶力が高く真面目な社員

ペーパーテストでわかるのは(主に)記憶力である。

もちろん、論理的思考力などが試されない訳ではない。

ただ、殆どは記憶力に依存していると僕は思う(少なくとも当社のペーパーテストに論述は一切ない)。

もしかしたら、ここには「忍耐力」「持続力」「課題への取り組み姿勢」みたいなものも含まれるのかもしれない。

試験をやるという声明があって、それに対して真面目に取り組もうとすること、それは社会人として大切なことではある。

でも、(繰り返しになるが)それはあくまでも参考資料である。

ここで炙り出されるのは、「記憶力が高く真面目(従順?)な社員」だと僕は思う。

確かに、そのような人たちも尊重されるべきではある。

しかしながら、これからの時代に「記憶力が高く真面目な社員」がどれだけ必要なのだろうか?

ましてや、それが優秀だという評価基準の最重要項目に据えられることは、どれだけ時代適合的なのだろうか?

記憶力=能力?

これはこれからの学校教育にも言えることかもしれないけれど、何かを記憶すること、その記憶持続力が高いこと、それを上手に取り出せること、が人間の優秀さを証明する比率は段々と下がっていくのではないか、と僕は考えている。

というか、今までが記憶力偏重過ぎたのではないかと思うのだ。

もちろん、記憶力が高いことは、その他の能力が高いことの傍証となっている(傾向的に示されている)ことは完全には否定できないだろう。

でも、それを至高とするのはいかがなものかと僕は思う。

ましてや、社会人においてはどうなのだろうか?

何となくそこに違和感を覚えるのである。

入れて、出す、その速さ。

結局のところ、ペーパーテストをクリアするというのは、脳の中にたくさんの記憶をインプットし、そこに検索をかけ、適切な速度でアウトプットする能力を示す、それだけのことなのではないかと思う。

もちろん、それができるかできないかという尺度で比べるなら、できるに越したことはない。

だからエントリーチケットだと言っているのだ。

そういう意味においては、ペーパーテスト自体が無効だとは思わない。

ただ、そこまで有効だとも思わない。

そのような感性の中で、人間の能力評価をすべきなのではないか?

というか、公平性とかコンプライアンスとかそういうことを重要視し過ぎているから、わかり易く数値が出るペーパーテストのようなものに頼ってしまうのではないか?

そんなことまで勘ぐってしまう。

ペーパーテストが得意なだけの部下はいらない

公平性を求めるあまり、本質を見失ってしまうこと。

というか、公平性を担保する為のエビデンスに頼り過ぎるあまり、本質から大きく逸れていってしまうこと。

それが多過ぎるように思う。

批判されたくない気持ちはわからなくはないけれど、批判されても「これがいいのではないか」ときちんと論駁できるような胆力を持って色々な施策を実行していかなければいけないのではないか?

少なくとも僕はチームにペーパーテストだけが優秀な部下ばかりになったら苦慮すると思う。

でも、きっと彼(彼女)らにはそんなことは想像すらできないのだろう。

愚痴っぽい話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

社会人の能力測定をどのように行うか?

ここにはたくさんの(特に現代的な)問題が含まれているような気がします。

そして、そんなたくさんの問題に塗れながら僕が思うのは、客観性(例えばエビデンスなど)よりも主観性をもっと重要視してもよいのではないか、ということです。

良いものは良いし、悪いものは悪い。

それくらい独善的でもいいのではないか?

最近はそんな風に思っています。

それはアートの世界だからです。

人間の能力はサイエンスではなく、アートだと僕は考えているからです。

アートにエビデンスなど不要(無粋)だろう?

僕が思うのはそういうことです。

測定不能な世界をもっと楽しんでいきましょう。