粋が消えた社会

ニュースステーションの最終回
久米宏さんの訃報と、当時のニュースステーションの映像を見て、「また一人粋な人が亡くなってしまったな」ということを思い、この文章を書いている。
と言っても、僕は久米宏という人をリアルタイムで理解している世代ではない。
もう少し下の世代だ。
だから、その政治性や思想みたいなものは正直なところよくわからない。
でも、ニュースステーションの最終回の映像を見て、その話し方や振る舞いに昭和性を感じ、そういう人が僕が会社に入った頃にはまだいたんだよな、ということを懐古しながらこの文章を書き始めた。
そして、粋という言葉は今の日本社会において死語になってしまったのではないか、という方向に僕の考えは進んでいく。
意味が分からないかもしれないけれど、今日はそんな話をしていこうと考えている。
それでは始めていこう。
早稲田っぽさ
「早稲田の人っぽいな」
それが僕がニュースステーションの最終回の映像を見て思ったことである。
そして、ネットで答え合わせをしたらやっぱりそうであったこと(自分の感覚の正しさ)に安堵している。
これは文章で表現しづらい感覚である。
「タモリとか久米宏とか、そういう人」が僕が感じる早稲田っぽさである。
そこに僕は昭和を感じるし、粋のようなものを連想するのだ。
早稲田と慶応
もちろん、早稲田の卒業生など死ぬほどたくさんいるだろうし、全員が全員そのような傾向があるとは流石の僕も思わない。
でも、そこには「早稲田性」みたいなものがあるとも思うのだ。
表現が難しいけれど、それは慶応にはないし、東大にもない。
そして、現代はどちらかというと慶応や東大っぽさが支配的になっている、という方向に僕の思考は進んでいく。
不定形のものと定形のもの
といっても、僕が早稲田が好きで、慶応は嫌いという単純な話ではない。
いや、大きな話で言えばそうなのかもしれないけれど、好き嫌いというよりはカルチャーの話というか、雰囲気の話である。
日本社会は(というか世界中どこもそうなのかもしれないけれど)、不定形なものではなく、定形のものを尊ぶ方向に進んでいったと僕は考えている。
それは経済発展と言えば経済発展なのかもしれないし、資本主義化と言えば資本主義化なのかもしれない。
それ自体は良いとか悪いとかそういう範疇のものではなく、そういうものであると僕は捉えている。
ただ、それによって失われたものがあるし、それは結構大きな喪失だったのではないかとも思うのだ。
納得度と粋
形に見えないもの。
それはアカウンタブルではないし、公平性という観点からも疑問が残る。
だから、もっとわかり易く、納得可能性が高いものを尊重すべきだ。
それが当世である。
それ自体は(繰り返しになるが)悪いことではない。
不定形のものよりは定形のもの方が納得性は高い、それはそうだろう。
でも、何となく窮屈であるとも思うのだ。
そして、その窮屈さが粋というものの息の根を止めたのではないかとも思っている(いや、その逆か)。
粋という概念が日本社会の強みだったのでは?
僕からすれば、現代日本社会は無粋である。
「だから何なの?」
その返答も十分に理解できる。
無粋であることは別に悪いことではない。
でも、粋であることが日本社会の強みであり、それがなくなったら同じ土俵で世界と戦うしかないのではないかとも思うのである。
AIと同じ土俵に立つ
もっと言えば、それは「AIの土俵に立つ」ということになるような気もしている。
たぶん、AIは粋という概念を理解できないだろう。
それをアルゴリズムに落とし込むことは難しいだろう。
そして、だからこそそれが差異を生み出し、日本を世界やAIから離れた場所に位置付けることに繋がるのではないかと僕は思っている。
フラット化へのカウンター
最近になって、グローバリゼーションへのカウンターが世界中で起きている。
それは固有文化への回帰みたいなものだと僕は理解している。
世界がフラットになることは必ずしも良いことではないのかもしれないという疑念。
もちろん、ここには国粋主義的な危険性(排他主義など)が潜んでいる。
でも、僕が思うのはそこまでラディカルなものではなく、固有の文化は固有の文化として尊重すべきだよね、という単純なものである。
そして、その日本における固有性というモノの範疇の中に、「粋」という概念があるのではないか、と僕は思うのだ。
右とか左とかじゃなく
それは経済成長と必ずしも相反するものではない。
むしろ固有性や差別化というのは、競争優位に立つ為に不可欠なものですらある。
そんな観点から僕は粋というものを捉えようとしている。
ともすれば保守みたいに捉えられそうなこの概念を、右傾化し過ぎることなく上手に活用していくこと。
それが今後の日本社会の発展に繋がるのではないか?
そして、その為には粋的なものを絶やさないように、僕たちが幼児化することなく、大人としてきちんと振舞っていく必要があるのではないか?
粋的なものを伝える
一介のマネージャーにできることなどたかが知れているのは事実である。
でも、できることをやるしかないのもまた事実であって、僕ができることを最大限やる、そこには粋的なものを伝えるという役割もあるのではないかと考えている。
何だか纏まりのない文章になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
センチメンタルな文章になってしまいました。
そこに懐古主義的な要素があることは否めません。
「昔はよかった」
今回の文章も大きく言えばその種のものに含まれるのかもしれません。
でも、それだけでもないのでは?
世界の幼児化とそのカウンターとしての粋という概念。
それはたぶん日本にしかない強みだと僕は考えています。
カッコいい大人であり続けましょう。
