努力しなかった人達の末路

UnsplashCintya Marisaが撮影した写真

春闘の季節

以前からこのブログでは、インフレ時代においては人々の行動が変わっていくはずだ、ということを述べてきた。

今日もまた似たような話である。

春闘の季節が近づいて来て、ニュースでは各社の賃金上昇率が毎日のように報道されている。

それも以前では考えられなかったような上昇率で。

その報を聞く度に、「ああ、時代は変わったのだな…」としみじみと思う。

そして、どんどんと差が付いていく時代になっていくのだろうな、ということも。

デフレ時代には露見しなかった努力不足が露見し、その人達のスキルや能力のなさが露わになっていくこと。

それにより、じわじわと格差が拡大していくこと。

過酷ではあるものの、今よりはきっと真っ当な社会。

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

なぜ報われない努力をするのか?

「やってもやらなくても同じ」

それがデフレ時代における基本行動原理の1つであった。

特に努力をしないことを正当化する者にとっては、この言説は大きな説得力を持っていたように思う。

そして、実際にそうだったとも思う。

「努力しようがしまいが、その報酬が変わらないとするなら、努力するだけ無駄では?」

それはその通りだ。

ただね、と僕は思う。

時代がずっとそのまま変わらないのであれば、と。

そして、実際に時代は変わってきた。

そのような人達が右往左往している。

そんなことを思う。

誰かに言われてやるもの?

最近つとに感じる違和感の1つに、スキルや資格というのは誰かに言われて(強制されて)身に付けるものなのだろうか、ということがある。

自分で仕事をしていて、何らかの壁にぶち当たり、のっぴきならない必要性を感じてそれらを身に付けようとするのではないか?

でも、多くの人にとっては、この感覚の方がおかしいようだ。

「なぜやれと言われてもいないのに、自発的にやるのか?」

そのような考え方のデフォルト設定。

それが僕にはよくわからない。

他者が発信源の動機

インフレ時代が現実となり、会社側もスキルや能力によって処遇を変えていくことを実際に表明し出すと、この種の人達は慌ててスキルアップを図ろうとしたり、資格を取ろうと必死になる。

もちろん、必要性が生じたからそれに応えようとすることは決して悪いことではないし、もしかしたら彼(彼女)らが思うように、その方がコスパが良いと言えるのかもしれない。

ただ、どうにもよくわからないのだ。

というか、全く共感できない。

多くの物事の動機の発信源を他者に委ねること。

それによって、自分の行動が大きく変わってしまうこと。

そのような生き方や仕事観。

価値観の問題と一蹴することができなくなってきた

いや、確かにこれらのことは価値観の一種であり、僕がとやかく言うような話ではないのかもしれない。

生き方や働き方はそれぞれ、きっとそれでいいのだろう。

でも、僕としては、そのような生き方や働き方というものだけで片付けられていたものが、実際に処遇の差になったり、取り組む仕事の差になったりすることは、少しほっとすることではある。

今までは仮にそのような差があったとしても、十把一絡げにされていたのだ。

そこに差などないかのように振舞われていたのだ。

それが露出した現在。

大変ではあるけれど、望ましい事態ではあると僕は考えている。

デフレは人間を怠惰にする

社会人生活の大半をデフレという時代に送ってきた僕は、デフレというものが人間を怠惰にし、向上心を失わせ、何なら努力しようとする者を排撃するということを痛いほど味わってきた。

そこにあるのは「横並び」の意識である。

「横並びを乱す者は不届きな奴である」

そうやって、日本社会は停滞し続け、いつしかそれが30年を超えた。

もちろん、そのような停滞でも構わない、という人は多数いるのかもしれない。

日本社会がどうなろうと、経済がどうなろうと、別に構わない。

今が楽であり、楽しければ、それで構わない。

それも価値観の問題だ。

でも、僕は嫌なのだ。

努力が(相対的に)報われる社会の方が好ましくない?

それは別にカネが欲しいとか、日本の相対的地位が向上して欲しいとか、そういうことではない(いや、そのような要素がないとは言い切れない)。

ただ、単純に気分が悪いのである。

もっと言えば、これは経済的な話ではなく、文化的な話なのかもしれないとすら思っている。

努力する者が(相対的に)報われる社会。

その方が僕は健全であると思うし、そのような方向に社会が進むべきだと思っている。

セーフティーネットはあって然るべきだが

もちろん、ここには選民思想的な危険性が内在しているのは事実だ。

また、「そもそも努力できない者はどうするのだ?」というような弱者救済的な措置も必要だろう。

でも、そのような諸々の課題を前提としても、そのような方向性がある(と信じられる)社会の方が居心地が良いような気がしている。

今までよりも正直者が馬鹿を見る可能性が低くなること。

価値観の問題

繰り返すが、こんなものは価値観の問題に過ぎないのかもしれない。

ただ、あらゆることは究極的には価値観の問題に還元されるのもまた事実であるような気もしている。

少なくとも、僕は努力し続ける者でありたいし、そのような人達と共に仕事をしていきたいと考えている。

変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

どのような自己像であれば、自分に嫌気が刺さずに済むのか?

他者に嫌われるより、自分に何よりも嫌われたくない。

それが僕の行動原理です。

適切な格差は必要悪です。

皆で手を繋ぎゴールテープを切ろうとする徒競走なんてまっぴらごめんです。

論点はきっとそこじゃない。

平等を履き違えず、公平さを求めていきましょう。