データを疑う目を

簡単に味付け可能なデータ
ビックデータやAIのような言葉が普遍的になり、データを活用することがビジネスにおいて今まで以上に重要になってきているのが現代社会である。
ただ、そのデータの取り扱いについては注意した方がいいのではないか、と僕は考えている。
というのも、データは無色透明・無味無臭であるが故に、意図的に色を付けたり、味や臭いを付けることが可能であるからだ。
「データは恣意的に使われる可能性があること」
それを念頭に置きながらデータを見る必要がある。
それが今回の話の結論である。
それでは始めていこう。
意図的に客観的であると見せようとするデータの怪しさ
「数値やデータは(当然に)客観的である」
誰しもがそのようなことを念頭に置きながら議論をしているように感じる。
もちろん、それがベースであることは否定しない。
でも、(残念ながら)多くの数値やデータは、語りたい物語の方向性に合うように調整されたものであるというのが僕の感覚である。
そして、それ自体は決して悪いことではない。
ただ、それが意図的に客観的であることを装いながら行われているとするなら、卑怯だなとは思う。
せめてそこには恣意的なデータ採取であるという自覚があるべきだし、何なら羞恥みたいなものも含まれているべきだと僕は考える。
そうでなければ、その物語を展開する者以外は、そのデータの客観性について検証することは結構難しいことであるからだ。
節度を
そういう意味において、データを取り扱う者には一定程度の節度が求められると僕は考えている。
それがあれば、大抵のデータは問題なく使用することができる。
でも、もしなければ、「取扱注意」である。
エセ客観性
僕は上記したような「節度のないデータ使用」のことを「エセ客観性」と名付けている。
それは客観性を装いながら、実は思いっきり主観的なものに過ぎない。
しかしながら、その顔は「客観性です」と主張しているので、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
そして、議論が恣意的に展開されていってしまう。
そこがとても怖いのだ。
無意識的に行われることもある
多くのデータは「切り取り方」次第で、その語る意味が変わってしまう。
極端なことを言えば、切り取る期間をほんの少し変えるだけでそのデータは正反対の意味を持つことだってある。
そのくらい取り扱いには注意が必要なのだ。
そして厄介なことに、データを取り扱う者がこのことを無意識的に行っている場合すらあるということである。
悪意なく、気付かない内にそのような陥穽に嵌ってしまうこと。
こうなると、話者も聞き手も客観性がない状態で議論を展開して行かざるを得なくなる。
でも、参加者全員がそのことに気付いていない。
滅多にないこと?
「いや、そんなこと滅多にないでしょ?」
そう思われる方も多いかもしれない。
そんなことないのだ。
僕の感覚では、大抵の議論はこのような空論をベースに行われている。
そして、そこで出た結論が金科玉条のように展開される。
そのことに疑いを持つ者はごく少数だ。
そこに問題があるのでは?
結論ありきの日本社会
以前、「無謬性の原則と日本社会」というタイトルのブログ内でも述べたことであるけれど、日本社会においては、「こうならなければならない」という結論が先にあって、「そこにどうやって到達するか」「その為に必要なエビデンスは何なのか」という順番で物事が決められていくことが多いと感じている。
言わば、「結論ありき」なのだ。
このような傾向(特性?)とデータが合わさると、非常に厄介なことになる。
結論に即したデータが恣意的に集められ、それがさも客観的であるように語られるからだ。
そして、それに反論しようとすると、「データ」という壁にぶち当たることになる。
ここにいつも僕は疑問を覚えるのだ。
データが先であるべきでは?
本来はデータが先にあって、結論はそのデータに基づいて出されるものであるはずだ。
もちろん、そこには当然にそのデータをどのように「解釈」するか、という議論や熟議があって然るべきだ。
でも、もしそうでないなら、結論というゴールに達する為に役立つデータだけが恣意的に集められるなら、そのデータは無価値どころか有害にすらなる。
しかしながら、参加者はそれがさも客観的であるかのように思わされる(騙される)。
みんなで演技を続けていこう?
いや、騙されている訳ではないのだ。
そのように「演じる」ことが求められる。
ある物語があって、それを補強するデータが集められて、それを信じるフリを皆が続けている。
それは信仰に近いものだと僕は考える。
そこにデータという外殻が纏わっている分、余計にこの話はややこしくなっているのだ。
科学で補強された信仰
科学に補強された信仰。
それに基づいて展開される様々な戦略。
だから的外れになるのだろう。
データに意思はない
もちろん、データに悪気はない。
データは何の意思もなく、ただそこに存在するだけである。
僕たちを間違った方向に誘導しようなんて、露ほども考えていない。
だから、その取扱い方法がとても大事なのだ。
そのような意識なくして、切れ味のある戦略もまた生まれないのである。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
二言目には「エビデンスは?」という人達に辟易しています。
そして、そのエビデンスが信仰に近いものであることに。
結論ありきの思考においては、データは有害になり得ます。
適切な疑いの目を持って、データを扱っていきましょう。
