品質は60点でいい
過剰品質競争を繰り返す受験エリートたち
官僚主義が組織に蔓延していると、細部の差異によって優劣をつけようとする方向に意識が向いていく。
微細な、誤差とも言えるくらいの違いに着目して、その精度の確かさを判断の基準にする。
ここには内向き志向と、減点主義が含まれている。
尖った人物がいなくなったあとの社内には、受験エリートのような、「答え」に如何にして近づくか、ということに異常な執念を燃やす人たちが溢れることになる。
ある種凡庸な人達を比べて、優劣をつける為に、過剰品質競争が繰り返されていく。
遠くから見たら違いなどわからないのに、ミリ単位(ミクロン単位)の差をそれぞれが主張していたりする。
僕はこういった傾向にうんざりしている。
そのようなどうでもいいことに拘泥することに何の意味があるのだろうか、と思っている。
この種のタイプの人が厄介なのは、自分だけでなく、他人にもその精緻さを求めることだ。
「ここをもう少しこうした方がいい」とか「ここが足りない」とか、大勢に影響のないことを微に入り細を穿つように指摘してくる。
90点を91点にする為に、莫大なエネルギーと時間を消費しようとする。
そして井の中の蛙のように、どんどんと外界から取り残されていく(自覚のないまま)。
塗り絵を如何に上手に塗ってもそれは塗り絵に過ぎない
これはたぶん「頭の良い人」に見られるものなのだろうと僕は思っている。
物事には正解があって、その正解に至るためには問題集を繰り返したり、傾向と対策を入念に行ったりすることが最善だという思想が(成功体験が)そこにはあるのだろう。
単線的な成功感、というか。
一次関数的な向上感覚、というか。
努力は必ず報われるものだ、という労働観というか。
塗り絵のすべての面に色がついていないと気持ちが悪いかのような感覚があるように僕には映る。
余白を埋めていくことに固執しているというか。
出来上がったその塗り絵は確かに「綺麗」ではあるけれど、そこには「個性」はない。
そしてたぶん現代という時代においては、その「綺麗さ」には何の価値もない。
受験秀才たちのガラパゴス的な内部競争において至上とされるものを僕はこんなイメージで捉えている。
それはたぶん現在日本企業の行き詰まりの根源にあるものだと思う。
キャッチアップ型の経済では最適であった思考回路が通用しなくなってきているのに、いつまでもその成功体験にしがみついたままだ。
「こっちの方が綺麗に塗れたぞ」「いや、こっちの方が綺麗だぞ」というような世界観。
でもそれはあくまでも「塗り絵」に過ぎないのだ。
僕たちはたぶん、新しい絵を描かなくちゃいけないのだ。
無様であってもいいから、クリエイトしなくちゃならないのだ。
脳で考えるんじゃなくて、とにかく手を動かす必要がある。
そして「跳躍する」必要がある。
そう、僕らの未来は現在の延長線上にあるんじゃない。
そこには「リープ」が必要だ。
僕は最近こんなことばかりを考えている。
ガサツだけれどエネルギーに満ち溢れた世界
そこで出てきたのが今回のテーマでもある「品質は60点でいい」というイメージだ。
僕たち日本人は真面目で勤勉だし、それはとても素敵な美徳であるけれど、でも世界にはもっとガサツだけれどエネルギーに溢れる世界が広がっている。
そんな不完全なものを力ずくで組み合わせた不格好な代物が世界を席巻している。
その「いびつさ」を僕たちはもっと楽しまなければならないのではないか。
そのような「余裕」が僕たちには必要なのではないか。
求道者的な、職人的なものに加えて、僕たちにはもっと「あそび」が必要な気がしている。
ちゃっちゃと最低限の品質のものを出してしまって、わいわいと楽しんでいく、というか。
リーン・スタートアップ的な、アジャイル的なマネジメントというか。
ここには楽観主義や加点主義や性善説みたいなものが含まれている。
全科目で良い点を取ろうとするのではなくて、ところどころで100点以上を「取ってしまう」ようなイメージだ。
できていないことを指摘すれば負けることはない(必勝だ)
マイクロマネジメントもそうだけれど、「ここができていない」というようなマネジメントスタイルは確かに簡単だ。
そこでは自分は切り離されていて(安全地帯にいて)、そのできていない要因を部下のせいにできるからだ。
そして「できていない」というのは「できている」よりも指摘しやすい。
「できていない」のは静的で、「できている」のは動的な概念だからだ。
だから、「できていない」ことを指摘することで「負ける」ことはない。
事実「できていないから」だ。
負け試合のないことをマイクロマネージャーは好む。
クレヨンで思い思いに描かれた創造的な絵
僕は負けてもいいと思っている。
その分をどこかで大勝できればいいと考えている。
そのような「デコボコ性」を僕は好む。
整地されたものよりも、そのような武骨さを僕は愛する。
それは「マネジメント」というイメージと相反するものなのかもしれない。
「マネジメント」には静的なイメージが付きまとっている。
整然としていることが良しとされる。
僕はここに異を唱えたい。
もっとぐちゃぐちゃバラバラなままでいい。
子供がクレヨンで描く絵のようによくわからないもので全然構わない。
僕はそこから創造性を拾い上げたいと思っている。
海が青でなくて、木が緑でなくて、雲が白くなくて、それでいいと思っている。
白いキャンバスの上に、みんなが思い思いに絵を描いていく。
個々の画家たちの才能は大したことがない。
でもそれが合わさったものは、きっと予想を超えた素晴らしいものであるはずだ。
僕はそんなチームを作りたい。
そんな風にマネジメントを行いたい。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
ただの価値観の違いだと言われればぐうの音もでないのですが、僕は1対0の試合よりも、4対3の試合を好みます。
マネジメントにおいては、失点を防ぐこと(0点に抑えること)が尊ばれますが、僕から言わせれば、それをしてしまうと得点力も同時に失われてしまう(そして試合はつまらないものになってしまう)行為です。
多くの人は得点力を維持しながら失点を減らすことができるという夢物語を心から信じているようですが、それは不可能です。
なぜならあらゆることは有限で、かつトレードオフの関係にあるからです。
弱小チームが得点を取るためには、失点を恐れずにとにかく前に出ることが必要です。
失点を叱責することなく、得点に大げさに喜ぶ。
そういう心性で僕はマネジメントを行っていきたいと思っています。