過剰品質はいらない

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日本社会は空洞だ

過剰品質を求めている組織に限って、個々のメンバーは「過剰品質はいらないから」と言ったりする。

これは本当に日本的組織の悪しき風習だと思う。

誰も主体がいないのに、そのように「なっている」状態。

自分では過剰だと思っていなくても、それぞれの構成員の少しの「気遣い」が積み重なっていくと、それは「過剰品質」になる。

ひと頃話題になった「忖度」というものがまさにそうで、その「忖度」が積み上げられると、そういう「文化」ができあがる。

誰一人「過剰品質にしよう」とは思っていないのに、自然とそうなってしまう。

そして「時間がない」と騒いでいる。

とても滑稽だ。

笑ってしまうくらいに。

過剰であることに気付かないから停滞している

不思議なことだけれど、「中にいるメンバー」はそれが「過剰品質」だとは思わないようだ。

僕は新しくマネージャーとして赴任すると、いつもそのことを指摘するのだけれど、大抵の場合はぽかんとされるだけだ。

「この人は何を言っているのだろうか?」「これのどこが過剰なのだろうか?」という反応がいつも僕を温かく迎えてくれる。

こういう状態であっても、その組織が高いパフォーマンスを出しているのであればとやかく言う必要はないのだけれど、大抵は大したことない状態で停滞しているので余計にたちが悪い。

というか、「だから停滞している」のだろう。

どうでもいい仕事も、どうでもいい仕事をする人も、自然に増えていく

仕事というものは放っておくと、自己増殖していく。

慣性の法則に従って、仕事の工程というものは自然に増えていく。

これは「そういうものだ」としか言いようがない。

そしてその増えた仕事をする「官僚たち」も同時に増えていく。

その「官僚たち」は自分の仕事を守ろうとする。

これも「そういうものだ」としか言いようがないものだ。

どうでもいい仕事は増えるし、どうでもいい仕事をする人も増える。

これは良いとか悪いとかそういう範疇の物事ではなくて、「そういうもの」なのだ。

自己防衛本能が組織をダメにする

だから、時折そういう無駄な仕事を減らしていくことをしなければならならない。

意識的に剪定していく作業を行わなければならない。

でもその剪定作業は大きな反発を生む。

誰だって「自分の仕事が無駄である」と指摘されると腹が立つからだ。

そして「日常を変えられる」ことに耐えられないからだ。

そういう自己防衛本能が組織の効率化を阻害する。

「やらないこと」を決めるのがマネージャーの仕事

ここまでが一連の流れだ。

もしあなたのチームのパフォーマンスが上がっていなかったり、時間がなくて業務が回らない、と思っていたりするのであれば、そこには「過剰な仕事」が必ずある。

もう一度言う。

「過剰な仕事」が必ずある。

まっさらな目で見るのは難しいかもしれないけれど、そこにメスを入れなければパフォーマンスは上がらないし、時間は確保できない。

だから「やらないこと」を決めなければならないのだ。

そしてその「やらないこと」を決めるのはマネージャーの仕事なのだ。

無駄なことをやめればそれ以外のことができる、当たり前だろう?

何度もこのブログ内で言っていることだけれど、これができればパフォーマンスは確実に上がる。

当たり前だ。

無駄なことをやめれば、それ以外のことができるからだ。

リスク0でリターンだけが生じる

なぜそれがわからないのか?

責任を取りたくないから前例踏襲を繰り返す

いや、本当は僕はその理由がわかっている。

それは「怖いから」だ。

何かを変えて、その失敗の責任を取りたくないからだ。

批判の矢面に立ちたくないからだ。

少なくとも前と同じようにやっていれば、たとえ上手くいかなかったとしてもその従前のやり方のせいにできるからだ。

悪気がないのもわかる。

でもそれが積み重なると、それは過剰になるのだ。

そうやって組織は停滞するのだ。

精緻という聖地を死守したがる人たち

僕はいつも思うのだけれど、管理職は「腹を括る」という覚悟が絶対に必要だ。

例えば過剰品質の一つの例として内部資料を必要以上に精緻に作るというものがある。

これは自分の上司からその内容について問われた時に曖昧な答えをしたくない(恥をかきたくない)、という心理状態から生じるものだ。

だから部下に対して、「この数字が違うじゃないか!」「なんできちんと入力しないんだ!」と無駄な仕事をさせる。

本当に冗談みたいな話だけれど、数字の最後の一桁まで合っていないとブチ切れるようなマネージャーは実際に多い。

無駄なことをやめる勇気を

僕にはこれが本当によくわからない。

僕は別にその一桁の数字が違っていたとしても(というかもっと大きくズレていたとしても)、大勢に影響はないし、そもそも良い成果が出ればいいんじゃない? と考えている。

その精緻にする体力を別のところに振り分けた方が建設的であると考えている。

仮に上司に「数字が違うじゃないか!」と言われても、「ああそうですね、すいません」と言いながらヘラヘラしている(内心ではそういうことを言ってくる上司を心から嘲笑している)し、それでも何か言われたら、「そんなことに意味があるのでしょうか?」と面と向かって反発する。

それで結果が出ていなければ僕はとっくの昔に左遷されているのだけれど、僕は結果を出しているので、何とかマネージャーを続けられている(上司としてはこんな生意気なヤツがいるのは嫌で仕方ないだろう)。

マネをしろとは言わないけれど、このように「最終的には左遷されてもいいや」というある種の開き直りがマネージャーには必要だと僕は思っている。

こうやってマネージャーが腹を括っていれば、部下は必ずついてきてくれるし、部下がついてきてくれれば、成果は必ず出る(無駄なこともなくなっているし)。

無駄なことをやめれば成果が上がる。

本当に簡単なことだ。

でも多くの人はこれができない。

だから騙されたと思ってやってみて欲しい。

必ず成果が出るはずだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

何か問題がある時に、多くの人はそれをシステムによって解決しようとします。

でもシステムというのはその性質上、ある時点からそれを守ることが目的化されるものです。

大事なのは「問題を解決すること」であるはずなのに、「システムを守ること」が優先されるようになる。

そしてそこにいる人達はそのことに対する自覚がない

これがよくある日本的組織の弊害です。

僕はある時点から「足すこと」ではなく「引くこと」の方が大事だということに気付きました。

それもきっと日本的文化の良さのはずです。

無駄を排し、本質的なことに注力していきましょう。