To Doリストの問題点
「To Do」という考え方を放棄する
教科書的なことが嫌いだ。
そして何かに追い立てられるのが嫌いだ。
だから僕はあまりTo Doリストを使わない。
というか、むしろ「To Do」という考え方自体を放棄したいとすら思っている。
もちろんビジネスマンなので、日々「やらなければならないこと」はある。
それを管理する必要があるのはわかっている。
それを「効率的」に行うのがTo Doリストであることもわかっている。
でも今回言いたいことは、(ちょっとニュアンスが伝わるか不安であるけれど)「すべきことを効率的に行わないことが重要である」ということだ。
意味がわからない?
確かにそうだろう。
じゃあそれについて書いていこう。
「タスク」という感覚をできるだけ少なくする
スケジュールは埋まっている方が安心する。
するべきことが決まっている方が仕事をしている感じがする。
その気持ちはとてもよくわかる。
でも、最近思うのは「余白」というか「遊び」というか、そういうものがなければ仕事というものは「次の段階」に行けないのだな、ということだ。
次の段階、というと大げさかもしれない。
ただ、ポスト工業化時代においては、何というか「タスク」という感覚をできるだけ少なくすることが重要なのではないか、と僕は考えている、と言えば少しは伝わるだろうか。
創造性を混ぜ込む、というか。
ユートピア的に響いてしまうこととも分かった上で
もちろん「いちサラリーマン」にできることなんてたかが知れている。
むしろ個人の創造性なんてものは不要だ、という雰囲気が当たり前である、ということも理解している。
そして、創造性を混ぜ込もう、という言説が、ユートピア的に響いてしまうこともわかっている。
ただ、僕が言いたいのは、そういうものを全て踏まえた上での話だ。
その方が成果が上がるから。
成果を出す為には個人の創造性が必要だから。
そういう時代になってしまったから。
そのニュアンスをどうにか感じて取って欲しい。
学校教育的秀才の限界
工業というか、会社というものは、時間単位の生産性を向上させることが何よりも重要である。
効率的に生産することが求められる。
線形な世界観。
そこで働く従業員もそれに従うことが必要だ。
タイムカード的な働き方というか。
To Do的な働き方というか。
「問題」があって、それに「答えていく」というか。
そしてその「問題」は外部から与えられる。
本社から、上司から、それは与えられる。
それを時間内に適切に「こなしていく」ことが「仕事」だ。
それを効率的にできる人が「優秀」だ。
学校教育的秀才の世界観。
それがだんだんと通用しなくなってきているのではないか。
僕はそんな風に考えている。
「与えられるものを終えること」=「仕事」?
オープンワールド型のRPGの多くが「お使いゲー」になってしまうのも、タスクというのは外部から与えられるものだという概念が僕らに染みついてしまっているからだと思う。
というか、たぶん僕らは与えられるものを終えることに快感を覚える生き物なのだ。
一方で、「問いを立てる」ことには困難が伴う。
何をしたらいいのかわからない状態で外に放り出されたら、たぶん僕たちは途方に暮れてしまうのだろう。
何の予定もない一日。
それを埋める為のTo Doリスト。
そうやって「仕事」をしているフリをする。
いや、フリ、というのは言葉が強すぎるかもしれない。
でもそうなのだ。
そうやってたくさんの「クソ仕事」が生まれている。
「クソ仕事」が当たり前の状況を少しでも変える為に
僕らの仕事の大半はどうでもいい不要不急の「クソ仕事」だ。
みんな薄々そんなことわかっている。
自分の仕事に何の意味もないことなんて気付いている。
だから、仕事はつまらないし、給料を稼ぐための、生きる為のタスクでしかない、そういう考え方もわかる。
苦役を強いられる人間。
社畜論。
それを少しでも変える為の方法論が、To Doリストを捨てることだと僕は考えている。
効率性で優秀さを評価しない
もう少し現実的かつきちんとした言い方をするのであれば、15%ルールとか20%ルールとか、そういうものを自分の中に取り入れる、ということになるのだろう。
仕事の中に余白を入れる。
誰かに強いられるのではなく、自分でやりたいことをやる。
それも求められるタスクを終えた後で。
いや、タスクを「効率的」に「終える」ためにこそ、To Doリストが必要なのか。
ほら、矛盾してきた。
でも、僕が言いたいのはたぶんそういうことなのだ。
盲目的にタスクをこなすことが最善ではないこと。
最短距離で突っ走ることがゴールに繋がるわけではないこと。
そういう意識を持ってTo Doリストを「使う」こと(「振り回される」のではなく)。
効率的であることが必ずしも効率的ではないこと。
それをこなすことで自らの優秀性をアピールしないこと。
そしてそれによって部下を評価しないこと。
部下を管理しないこと。
非線形な世界に移るために
これはとても難しいことだけど、部下のスケジュール帳が埋まっていること、それを埋めていくこと、が必ずしもマネージャーの仕事ではないし、マネジメントではない、ということを圧倒的な成果を出すことで僕は証明していきたいと思っている。
マイクロマネジメント論を超克して、面白いことをやりながら、非線形な世界に移りたいと僕は考えている。
それぞれのやりかた、それぞれのバイオリズムみたいなものを取り入れて、突然変異みたいなものを起こしたいと考えている。
工学的でなく生物学的なマネジメント。
その一歩がTo Doリストを捨てることだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文中では上手く書けませんでしたが(いつもそうですが…)、タスクを終えることは仕事ではない、ということを最近は強く感じている、ということを書きたかったのだと思います。
もちろん、既存の働き方の枠組みの中でできることというのはたかが知れています。
ただ、その「くびき」から逃れる為の第一歩として「To Doリスト」を捨ててみる(軽んじてみる)のは悪いことではないような気がしています。
スケジュールが埋まっている人の方が、そうでない人よりも優秀である、という価値観を疑ってみること。
忙しそうにしている人は実は無能なのではないか、と考えてみること。
10時間働くことと、1時間働くことが、等価である状況があるのかもしれないと想像してみること。
そうすることが実は生産性の向上に繋がるのではないか、と思いを馳せること。
僕は最近そんなことを考えています。
参考になる部分があれば幸いです。