生物学的マネジメント論
旧世代のマネジメントを超克するために
工学的マネジメントと生物学的マネジメント。
最近はこんなことを考えている(前回のブログの後半にも書いたことだ)。
前者は旧世代の、後者は新世代のマネジメント手法だ。
工学的マネジメントとは、「生産」に焦点が置かれたマネジメント手法で、効率性とか同一性とか反復性とか、そういったものを重要視する概念だと僕は考えている。
そしてKPIのような数値を用いて客観性を担保させようとする。
そういう意味では、静的なマネジメント、と言えるかもしれない。
生物学的マネジメントとは、「創造」に焦点が置かれたマネジメント手法で、エラーとか遊びとか余白とか、そういったものを重要視する概念だと僕は考えている。
そして遺伝子交配を重ねながら進化していく。
動的なマネジメント、のようなイメージだ。
まだ上手く言えない部分が多いとは思うけれど、自分の思考の整理の為にも今回はこのテーマで書いてみようと思う。
人間は分解可能であるという概念
工学的マネジメントは、テイラーによる科学的管理法の延長線上にある考え方だと僕は思っている。
労働者が行う作業は数値化して客観的に示すことができる(もしくはできるはず)、と考える概念全般を科学的管理法の後継者にあたるものとして僕は捉えている。
科学的、という言葉の通り、作業を分解していけば、単純な要素に還元されていく(はずである)。
それを組み合わせたものが作業の総体であり、作業の総体というのは労働者というものに他ならない(はずである)。
そこでは当然ながら同一性が求められる。
同じ作業を別のやり方でやることは悪とされる(改善は別として)。
できるだけ没個性的に、誰がやっても同じ結果が出るようにすることが求められる(工場において、作業員毎に違うものが出来てしまうことはあってはならない)。
そこでは人間も生産工程における部品の1つだ。
チャップリンの映画ではないが、我々はそこで歯車の1つとなる。
刃こぼれすれば、取り換えればいい。
僕たちはできるだけ同じ顔をして、同じ時間に工場に向かい、タイムカードを押す。
そこで決められた時間働き、決められた給与を得る。
それを永遠と続けていく。
(社畜論もこういう思想の範疇に含まれるものだろう。僕たちは家畜のように使役させられ、用が済んだら廃棄される)
科学的管理法に基づくマネジメント
マネージャーの仕事はそういう労働者たちを効率的に使うことだ。
目標とされている産出量を、出来るだけ少ないコストで、できるだけ早く正確に作ること、それをマネジメントと呼ぶ。
比例な世界、線形な世界。
PDCAサイクルをできるだけ速く回すこと。
KPIを改善させていくこと。
粒を揃えること。
それをマネジメントと呼ぶ。
交配と変異を尊ぶマネジメント
一方、生物学的マネジメントはエラーを面白がる。
遺伝子交配のように予期しないものを尊ぶ。
個々人の取るに足らないと思われるようなアイディアの芽を、多種多様な背景を持つメンバー間で「交配」させることで、ビジネスとして成り立つようなものに「変異」させる。
当然ながらそこにはハズレがたくさん生まれる。
失敗作がたくさん積み上がる。
三振か、ホームランか。
でもそれでいいのだ。
それこそが生物学的マネジメントなのだ。
おかしさを面白がる
外界が大きく変化したとしても、多種多様な生物がいれば、どれかの生物は生き残れるように、様々な考え方をそのままの状態にしておく。
無理に揃えない。
統一させない。
近親交配はさせない。
そして個人というものに焦点を当てる。
個々人の偏執とも言えるような「おかしな」部分を面白がる。
動的な概念
ある断片に対して、別の人が言葉を重ねていく。
また別の人が違う角度から、その物事を眺めていく。
下手な伝言ゲームが展開されていく。
そこに創造性は宿るのだ。
そのように創造されたものは、もしかしたら無限大の利益をもたらしてくれるかもしれない。
比例ではなくて、指数関数的なもの。
当たればデカいもの。
リーンスタートアップとか、アジャイル的な発想はここにも繋がってくる。
「完成品」ではなくて、未完成なものをみんなで面白くしていくこと。
顧客すらも巻き込んで、作り上げていくこと。
更なる創発性を呼び込んでいくこと。
ここに動的な概念が生まれてくる。
その時のメンバーや、プロジェクトの状況によって、マネジメントの形態は変わっていく。
流動的でオープンなチーム。
アイディアを攪拌する場としてのチーム
もちろんそこには遠心力みたいなものが働いているので、「チーム」として維持していくのには困難が伴う。
「個が立って」いるのであれば、当然ながら個人は個人として活動してもいいのではないのか、と思うだろうし、兼業や副業みたいなものがどんどん普及していけば、そのような意識というのは更に強くなっていくだろう。
そんな中で、チームとして活動していく意味なんてあるのか?
僕はあると考えている。
それはアイディアというのは攪拌されないと面白くならないと思うからだ。
アイディアをアイディアとして出してもいい場を作る。
下らないことを言ってもいいのだ、という空気感を作る。
そこに人々が集まってくるような、そこにいると自分の力が増すような、チームを作っていく。
それが生物学的マネジメントだ。
管理ではなく、支援すること。
メンバーの力を賦活させていくこと。
それをこれからも目指していこうと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
僕は自分のチームがなぜ高い成果が出るのかについてうまく説明することができません。
それは僕自身の説明能力の低さに起因することはもちろんですが、同時に、何というか、多くの人には理解不能なのかもしれないな、と感じてしまうのです。
違う言語で話しているような感じというか。
その一つの(僕なりの)解というのが、今回書いた工学的な考え方と生物学的な考え方の違いという概念です。
僕はマネジメントというものは、工学的なものだけでなく、人間がやっている以上そこにバイオロジカルなものが必ず付帯するように感じています。
それを排除して機械に近づいていくことが是とされているのが、どうしても感覚的に好きになれません。
強いサッカーチームは必ずアートを帯びています。
そのアート性をできるだけ高い確率で生じさせること。
再現性を高めていくこと。
それを僕はマネジメントと呼びたいと思っています。
こんな風にこれからも訳の分からないことを書き続けていくつもりです。
お付き合いいただけたら幸いです。