ミルグラム効果とシステム論
凡庸な人間が凡庸な悪を犯す
僕たちは簡単にアイヒマンになりうる、という衝撃的な事実から今回は書いていく。
悪事をなすつもりなんてなく、ただ目の前の仕事を黙々と遂行すること、それも生真面目に遂行すること、がホロコーストに繋がることがある、ということを組織内で働く人間は心に留めておく必要がある。
組織が求めていることに対して純粋に応え続けることが大きな悪に繋がる可能性について、いつもでなくとも時折思い出しておくこと、それが僕たちにできるせめてもの自衛策だ。
悪は悪をなそうとしてなされるわけではない。
性格破綻者や異常者でなく、凡庸な人間が凡庸な悪を犯す。
個人レベルの正義感なんてものはシステムの前には簡単に打ち砕かれてしまう。
それをミルグラム実験は端的に教えてくれる。
だからと言って、僕たちは既にシステムの中に組み込まれていて、そこから逃れることはできない。
僕たちはシステムと上手く付き合っていくしかないのだ。
もちろん企業レベルの組織であっても同様である。
そんなことを今日は書いてみようと思う。
組織の命令にただ従うことが大きな悪に繋がる
権威者に僕たちは簡単に従ってしまう。
その先のことを想像することができずに、上位者の命令に従ってしまう。
「組織の命令に従っただけ」
僕たちはそうやって大きな悪を犯してしまう。
いやいや、私はそういう状況に陥った時でも、正義を貫くことができる。
あなたはそう思うかもしれない。
でもミルグラム実験が教えてくれるのは、それはほぼ不可能であるということだ。
個人レベルの葛藤がそこにあったとしても、実際にその状況に抗うことはできない。
僕たちは大きなシステムの「代理人」として、確実にその悪を遂行する。
1つ1つは小さな悪かもしれない。
ただそれが組織レベルになった時、それは大きな悪となる。
目の前の仕事を愚直に遂行すること=仕方ないこと?
組織ぐるみの犯罪というのは、何も組織という目に見えない存在が引き起こしているものではない。
僕たち個人個人が、目の前の仕事を愚直に遂行することで、それが波及していくことで、起こるのだ。
誰が悪いわけでもない。
組織やシステムというのはそういう可能性を孕んでいるのだ。
あなたもそうではないか?
マネージャーであれば、たとえ意に沿わない仕事でも組織の為には為さなければならないと思っていないだろうか?
個人レベルでは反対であっても、上からの命令であれば仕方ない、と思っていないだろうか?
責任を組織に転嫁して。
いや、むしろそれが善だと再定義していないだろうか?
組織絶対主義
会社への忠誠というのは、この種の悪を犯すことに繋がりかねない、と僕はいつも心の奥で思っている。
上手く言えないけれど、昭和時代のど真ん中で働いていた人たちは、無意識下にこのような「組織絶対主義」みたいなものを持っているように思う。
組織に従うことは当たり前で、そこに疑いを持つことはタブーで、マシンのように命令を遂行することが正しい、と思っている人がとても多いように思う。
そこに疑義を持つこと、反論を述べることは犯罪に近いような行為である、とすら思っているように僕は感じる。
私心を捨てること、無私であること、組織に忠誠を誓うこと。
それは僕たち日本人の美徳なのかもしれない。
でもそれが行き過ぎた時、僕たちはとんでもない悪を犯す可能性がある。
まともな会社からまともな商品を買うことがまとも
そういう僕にとっては「当たり前」のことが上手く伝わらない。
少なくとも僕は組織における出世にあまり興味がなくて、やりたくない仕事はやりたくないと平然と言い放って、散々批判を浴びてきた。
罵声や怒声の中で仕事をしてきた。
別にヒーローを気取る訳ではないけれど、そういうものを心底くだらないものとして軽蔑すらしてきた。
それで疎まれても仕方ないという割り切りの中で仕事をしてきた。
でもそういう人間がマネージャーになってしまった。
偉そうなことを言うと、時代がようやく追いついてきたのだと思う。
ミレニアム世代だとか、Z世代だとか、そういう世代論は脇に置いておいても、「まとも」なことをやっている企業の製品やサービスを買う、というのが「まとも」である、という価値観がようやく社会的にも一般的になってきたように思う。
そういう外部環境の中で、競争に勝つためには内部の論理なんてものに拘っていても仕方がない。
僕にとってはそれは「当たり前」のことだ。
個人の総体が組織になる
ただ、管理職はそうではいけないようだ。
組織の命令を唯々諾々とすること、それを飲み込むこと、その忠誠度合いで評価が行われるようだ。
僕には違和感でしかない。
もちろん前述したように、個人なんてものは大きな組織の中では簡単に潰されてしまう卑小な存在に過ぎない。
そこでできることなんてたかが知れている。
それはわかっている。
でも、個人の総体が組織になるのだ。
僕らの日々の判断がシステムとなるのだ。
アイヒマンの亡霊から逃れるために
子供みたいに駄々をこねていても仕方ないけれど、求められている仕事の中で、自分を納得させられるものはやっておいて、他のこと(納得できないこと)はやらずに済ませていく、そしてその為には高い成果を上げておく、そんな風に考えて僕は仕事をしている。
下らないプライド?
ただの反乱分子?
きっとそうなのだろう。
ただ、時代は少しずつ変わってきているのだ。
若い世代と話をしていると、僕みたいに考える人間が少しずつ増えてきているように感じる。
僕たちはアイヒマンの亡霊から逃れることはできないのかもしれないけれど、個人個人のほんの少しの抗いが、少しだけマシな社会を作ることに繋がるのではないか、僕はそんなことを考えている。
そうやって僕は今日も僕にできることをやっていこうと思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
やりたくもない仕事をやらなければならないことほど、人間性を蝕むものはないと僕は思っています。
でも、生きていく以上、やりたくもない仕事もやらなくてはならない。
首になったら、仕事がなくなったら、家族を養っていくことができなくなるから。
だからこそ、今の仕事にしがみつかなければならない。
それが当たり前の考え方になっているような気がします。
でも、もしあなたがその嫌な仕事をやめても、同じくらいの給料が貰えるならどうでしょうか?
そうしたら、そんな仕事などさっさと辞めるのではないでしょうか?
ファック・ユーと言えるだけのお金があったり、転職市場が流動的になっていたり、ベーシック・インカムがあったりすれば、僕たちはもう少し機嫌良く働けるようになるのかもしれません(そうじゃないのかもしれません)。
難しいことはまた別の機会に考えようと思います。
懲りずにまた読んで頂けたら幸いです。