管理職不要論
管理職が誰もいない会社を想像してみる
今日は思考実験を。
会社から管理職が全員いなくなったらどうなるか?
想像してみて欲しい。
会社によって、その想像の中にいる管理職の種類によって、結論は変わってくるとは思うけれど、僕の答えは「大多数はいらないけれど、全員いなくなったら困るな」というものになる。
ここにマネージャーとして秀でる為の要素が隠れているように思う。
もう少し思考実験を続けてみる。
では、その「いらない人」と「いる人」を分かつものは何か?
それは「管理」しているかどうかだ、と僕は思っている。
言葉遊びみたいな感じになってしまいそうだけれど、今日はそんなことを書いてみる。
いてもいなくても変わらない中間管理職にしか会ったことがない
管理職は付加価値を生まない。
これはある種正解だと思う。
僕は営業の世界でずっとやってきたので、自分が管理職になる前は「こいつは1日中席に座っていて、本当に何もしてないな。オレの稼ぎに巣食う寄生虫だな」と思っていた(もう少しマイルドな思い方ではあったが)。
何人もの管理職の下で働いてきたけれど、ミドルマネージャーの位置にいる管理職の大半は尊敬すべきものが何もない、いてもいなくても変わらない凡庸な人物ばかりだったように思う。
キツイ言葉で言えば、「だからお前は中間管理職のままなんだよ」と思っていた。
「社歴が長いだけの奴が偉そうに言うなよ」と心の中で思いながら、指示も適当に聞き流していた(実際にその指示も「もっと数字上げろよ!」という精神主義満載の指示とも言えないような代物だった)。
(自分も含めて)管理職はいらない
自分が今その立場になってからもその考え方は変わらない。
管理職となった今、管理職はいらない、と僕は思っている。
というか、その思いをさらに強くしている。
それは自分のことを棚に上げている訳でもなく、僕自身も明日からいなくなったとしても何の影響もないだろう。
これが僕のベースの考え方だ。
生産性向上だとか、経費削減だとかを考えた場合、真っ先に首を切られるのは中間管理職だ。
そのことが管理職が不要であるということの証左でもあると思っている。
ただ、一部にはそうでない人もいる。
そういう人になることで、生き残っていける。
テイラー主義と管理職
それはどのような人か?
以前にも書いたことだけれど、それは「支援」をできる人だ。
「管理職」というネーミングが悪いと僕は思っているし、時代に合っていないと思うのだけれど、「管理職」という言葉には「(働かない・怠惰な)労働者を管理する」という意味が含まれている。
テイラーをディスる訳ではないけれど、「科学的管理法」的な、工業をベースとした概念がそこには付帯している。
使役させる、というか、管理職が鞭を手に怠け者たちを追い立てる、というか、そういう監督者的な考え方がそこにはある。
管理をすることが仕事である管理職はいらない
僕が不要だと思っていた中間管理職の大半もこのような意識の下で働いていた。
「自分の仕事は働かない部下を働かせることである」そんな風に考えて働いていた。
それは間違いだ。
そういう考え方の管理職はいらない。
経費の無駄だ。
どんどん削減してしまえばいい。
生き残るべき管理職は支援ができる人だ。
部下を賦活できる管理職だけが生き残ることができる
それはどのような人か?
上手く伝わるかわからないけれど、「部活の顧問」ではなく「テニスのコーチ」みたいな感じに僕は考えている。
試合に勝てないのは根性が足りないからだ、とか、走り込みが足りないからだ、みたいな精神論を言う顧問ではなく、それがなぜ必要なのかを説け、プレーヤーを腹落ちさせられるコーチ。
やらせるのではなく、進んでやるように仕向けられるような人物。
思考する際の壁打ちの相手となれる人物。
そんな人がこれからは生き残っていける。
(「コーチング」という言葉が僕はあまり好きではないし、日本にはあまり合っていない気がするので、そういう意味合いとは少しだけ違うイメージということを付言しておく。たぶんあまり理解はしてもらえないとは思うけれど…)
工業という概念の呪縛から逃れる
何度も言っていることだけれど、工業という(概念の)呪縛から逃れるべきだと僕は考えている。
インプットとアウトプットが線形に結びついている、という考え方から離れるべきだと僕は思っている。
アウトプットが望ましいものではない(期待値に届かない)時に、インプットを増やせばいいのだ(増やすべきだ)という考え方はやめて、なぜアウトプットが増えないのかを共に考えること(もちろんその結論としてインプットが足りないという結論はありうる)。
ヒットが出ない時に、「もっと素振りをしろ!」ではなくて、「なぜもっと素振りが必要なのか」、もっと言うと、「そもそもヒットが出ない要因は素振りが足りないことなのか」ということを問えること。
第三者的な視点から、選手をはっとさせられること。
関係性やタイミングを含めた総体としての支援
それぞれの選手にはそれぞれの特徴があって、それぞれの成長段階があって、そこに必要な練習はそれぞれ違う。
それを本人に気付かせることができる人がマネージャーだ。
もちろんそれは一朝一夕にできるものじゃない。
それを指摘したとして、すぐに受け入れてもらえる種類のものじゃない。
本人が受け入れるような態勢となっていて、そのタイミングを見極められること。
そのような関係性を築けること。
その総体としての「支援」。
僕はそんな風に考えている。
管理職は不要だけれど…
前述したように、僕がいなくなってもチームに何の変化もないだろう。
明日も今日と同じように上手く回っていく。
ただ、時が経つにつれて、その歯車は少しずつ狂っていくはずだ、という自負は僕にはある。
日々の微妙なメンテナンスの重要性を理解できる人はあまり多くないし、僕がどのくらい支援をしているか、なんてものは目に見えないからだ。
管理職は不要だ。
そう思いながら、僕はまた今日も支援を続けていく。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
僕の会社はコロナ前と同じような勤務状況になってしまったので何とも言えないのですが、例えばリモートワークが中心の会社においては、管理職はやっぱり不要なのだろうか、という疑問が今回の議論の出発点になっています。
僕の現在の考えは、本文の冒頭にも書いたように、「大半はいらないけれど、必要な人もいる」というものです。
もちろん、これはなにも管理職に限ったことではないのかもしれません。
大抵の仕事は「大半はいらないけれど、必要なものもある」というものなのでしょう。
でも、こと管理職においては、自分がその立場であるということもあり、擁護したい気持ちがないと言えば嘘になります。
僕は管理職は不要だ、と言いながら、管理職の為のブログを書くという矛盾した行為をしています。
どこかで同じように思っている人がいて、その人の力に少しでもなっていたら幸いです。