オリンピックとマネジメント
自分が決められるとしたらどのような判断をするか
今日は思考実験を。
この記事を書いている時点では、オリンピックが開催されるかどうか、開催されるとしたらどのような形で開催されるのか、はわかっていない。
ただ、もし自分がその開催可否や、その開催の仕方を決められるとしたら、どのような判断をするだろうか(もしくは中間管理職として上司に進言するとしたらどのような形を取るか)、と考えてみることで日々のマネジメント業務にも役に立つのではないか(規模の大小はあるが、判断の類似性はある)と思ったので、今日はそんなことを書いてみようと思う。
どうにもならない状況下での意思決定
今回のオリンピックに関しては、最善のやり方(世界各国から選手を集めて、満員の観客を入れて開催する)は事実上不可能になってしまった。
そして、次善の策としてのやり方には、それぞれの国民の間に大きな考え方の違いがあって、「正解」と言えるような方法がないのが現状である。
誰もが納得するような解決策は、取り敢えずのところ思い浮かばない状況。
どうやっても損害が発生するのは避けられない状況。
その中で、どこに「落としどころ」を探るか。
その意思決定が求められている。
着地点まで持っていく力
これは(規模はだいぶ小さくなるけれど)ミドルマネージャーの日々の判断の状況に酷似している。
予算があって、外部にはIOCみたいな組織があって、スポンサーもいて、放映権の問題もあって、国民感情もあって、コロナウイルスは蔓延していて、でも決断の期限も設けられている。
そんな中で、どこに着地点を定めるか。
全員を納得させることは不可能であるけれど、「まあ、じゃあそれでやってみましょうか」と言えるような状況まで持っていけるか。
それがマネジメント力なのだと思う。
現場にいる人間をいかに納得させられるか
以前にも書いたことであるけれど、正解がない世界において、大事になるのは「納得感」である。
先が見えない状況であるのはみんな一緒であって、不安がある中でどのように進んでいけばいいのか、それを示すことができるのがリーダーシップである、と僕は考えている。
みんなが完全にハッピーになる、ということはない。
ただ、それでも決断はしなければならないし、前に進んでいかなければならないのだ。
誰もが好きなことを言う。
無責任に、自分が決断しないことを良いことに、無理難題を声高に叫んだりする。
「じゃあ、お前がやってみろよ」と思うような局面が度々訪れる状況下で、マネージャーは現実的に日常業務を回していかなければならない。
そして実務を行うのはいつだって現場にいる人間なのだ。
この人間達をいかに納得させられるか。
ため息をつきながらも、腰を上げてもらえるようにするか。
それをたぶんリーダーシップと呼ぶべきなのだ。
現実的・建設的な議論
リーダーシップが欠如している日本という国の中で、僕はそんなことを考えながら仕事をしている。
格好良いことや、勇ましいことは誰だって言える。
でもそれでは人は動かない。
メシは食っていけない。
理想論やビジョンは空を切るばかりだ。
頭上を通り抜けていく言葉は、人々の感情をどんどん冷ましていく。
現実とのギャップをさらに広げていく。
「べき論」はわかる。
誰だってそう思う。
でも必要なのは「べき論」ではない。
どうやってやるのか、という現実的な議論だ。
どうやったらできるのか、という建設的な議論だ。
やりたいこととできることは違う。
それをごちゃ混ぜにして議論する人が多すぎる。
できることはできるし、できないことはできない。
神風は吹かない。
プロセスをプロセスとして差し出せる勇気
だからと言って完全に諦める必要はないのだ。
その中において、現在はどのような状況だと自分は認識していて、その中でこんな風に考えて、だからこの決断をした、ということを話せることが重要なのだ。
それは「正解」じゃなくていい。
「プロセス」を「プロセス」として差し出せる勇気を持つこと。
そこに潜む迷いや躊躇いも含めて言語化すること。
それこそがリーダーの取るべき行動なのだ。
大人とは?
「責任者」はいない。
「悪の権化」はいない。
そいつを引っ張り出してきて、そいつを叩きのめせば世界が好転するようなことはない。
僕らは同罪だ。
僕たちはそれぞれが共犯者で、既に同じ罪を犯していて、それでもこの状況の中で「何とかしていくしかないよね」とうなだれながらでも前に進んでいくしかないのだ。
そういう態度を取る人を僕は大人と呼びたいと思う。
「責任者出てこい!」と言ったって、現状は何も変わらない。
「どうにかしろよ!」と対岸から叫んだって、どうにもならない。
僕たちは今ある現実を主体的に受け止めて、その中で何らかのマシな方法を見つけ出していくしかないのだ。
単調で過酷な現実に対峙した言葉を
そのような意識を共有させられること、僕たちは同じ苦しみを持ちながらも、それでも無理やり前を向こうとさせられること、そういう言葉遣いができること、それがマネジメントなのだと思う。
諦める必要はない。
でも現実をきちんと直視する。
その中で、適切な重量を持った言葉を使って、メンバーを動かしていく。
みんなが応分の痛みを負いながらも、それでも何とか腹落ちさせて、前向きに進むこと。
「いつまでも幸せに暮らしました」というような童話のエンディングみたいなことは起きないのだ。
あるのは単調で過酷な現実だけ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
ちょっとでも弱みを見せると、袋叩きに合う。
だから一かけらも言質を取られないように、防衛的な言葉遣いをする。
それが最近の作法です。
ただ、それではリーダーシップは生じません。
先が見えない状況におけるリーダーシップとは、そのプロセスをプロセスとして差し出しながら、どのような理路を辿って、そういう考えに至ったのかを、体温を持った言葉と共に表現できることだと僕は考えています。
苦しい状況は誰しもがわかっている。
その中で何を言うか。
それこそがリーダーの振る舞いだと思います。
責任を負いながら、自分の言葉を素直に表現しながら、これからも仕事をしていこうと思います。
今後ともお付き合い頂けたら幸いです。